忙しかった3日間・B型肝炎訴訟と守大助

 8月30日はB型肝炎訴訟の大阪地裁の期日だったので行って来た。今回は夏休み中のせいか、若い人の姿も見られた。原告の息子・娘と思しき人や、中には小学生も。原告の関係者の人たちにB型肝炎訴訟について理解してもらうことは、大変大事なことであると思う。家族の支えがなく苦しんでいる原告もたくさんいる中で、身内の中に理解者がいるということは、原告にとって原告活動の大きな励みとなる。たくさん椅子を入れても傍聴席に入れなかった方も多かった。

 今回は2人の原告が意見陳述をした。55歳(1958年生まれ)の男性は、妻と長女・長男との4人暮らし。献血の時に自分がB型肝炎ウイルスに感染していることを知った。彼は会社で、「ウイルス性肝炎という病名のため『ウイルス』という響きが、風邪と同じように空気感染するかのように誤解され、急にマスクをしたりする同僚もいましたし、私とすれ違う時にサッと顔を逸らしたり、あるいは私が座ったソファーの位置をわざとずらして坐ったりされました。」と語っている。
 肝がんが解ったのは、感染発覚から約22年後の2006年7月。肝がんを医師から告知された時、「腰がガクッと抜け椅子から落ちそうになった後のことは途切れ途切れではっきりと覚えておりません。『告知』という観点からすると前ふりも無くいきなりの一言にびっくりを通り越しました。」と語った。この人のように肝炎患者は、いつ肝がんを発症するかおびえながら生きて行っているのが現状だ。彼はその後、2009年8月と昨年9月にも肝がんを発症している。これから先も、肝がんとの闘いを強いられる毎日になっている。私のように、ある日突然肺がんですと宣告された場合と、日常生活で肝がん発症の恐怖と向き合って生きている人と私では人生の中身が違うのである。
 彼は意見陳述の最後に、「最後に、たまたま見つかった肝がん、生かされている今を痛感しております。だから私にはこの病気に対する思い、苦しみを発信する使命があると考えております。B型肝炎の感染拡大の原因の究明、検証と共に、再発の防止策やこれからの恒久対策としてウイルス検査の一層の推進、肝炎医療の研究の推進、医療費の補助等あらゆる面からの体制の充実をどうかお願いしたいと考えます。」と締めくくった。
 もう一人の49歳の男性も同じく差別・偏見を味わっている。また、インターフェロンとの闘い、結婚への障害、肝がんの恐怖などを陳述し、最後に国への要望として、「でも、最後に一言、言わせて下さい。私が本当に求めていることは、『B型肝炎ウイルスに感染していない体を返せ』ということです。そして、それができないとしても、私のような不当な差別にあうことなく、自由に恋愛をし、一生懸命働くことのできる職場や周囲の理解が得られるよう、誤った知識を正していくように国は努力していただきたいと思っています。」と陳述した。

 裁判傍聴の後は、会場を大阪弁護士会館に移して、報告集会と原告団会議が行われた。ここでは、意見陳述した原告の感想(49歳の男性原告は、意見陳述をやってみたいと思った。これ以外にもたくさん言いたいことはあると語った。)この間の活動報告、真相究明班報告、大臣協議報告(最近参加した原告が報告したが、いろんな行動に参加する原告が増えることは、原告団活動の大きな前進になる。)、今後の活動提起、地域別肝炎デー活動報告(私も徳島での取り組みについて少し報告した。)、原告団交流会、今後の予定などが報告された。盛りだくさんの報告集会・原告団会議であった。

 徳島では、9月8日(日)1時半からあわぎんホール(郷土文化会館)でB型肝炎訴訟の相談会が開かれる。


 行き帰りの高速バスの中で読んだのは、「名護親方・程順則の<琉球いろは歌>」であった。出版社は沖縄のボーダーインク。東京のジュンク堂書店で以前購入した。
 ボーダーインクのホームページにはこう紹介していた。
 「六諭」の教えをやさしく説いた琉歌で伝えるチムグクル。1663年、久米村で生まれた程順則は、中国から道徳書「六諭衍義」を持ち帰り、そのこころを広めるために数々の琉歌を詠んだといわれている。「琉球いろは歌」とはその琉歌をいろは順に編集したもので、現代社会にも通じる「心のあり方」を伝えている。
 著者・安田和男(やすだ かずお)
1941年、本部町浦崎に生まれる。64年、琉球大学教育学部卒業、楚洲小学校を皮切りに教員生活に入る。85年、第6回「学力向上実践教育論文」最優秀賞受賞。1999年、名護小学校校長時に名護親方・程順則の「六諭」の精神を基盤とした幼稚園及び小学校教育の実践に取り組む。2002年定年退職、その後も学校教育専門指導員として、本の発刊、「六諭音頭」の作詞など、六諭の普及に取り組む。現在は退任。

 大辞泉小学館)によれば【六諭】りくゆ
 中国、明の太祖(朱元璋)が1397年、民衆教化のために発布した教訓。「父母に孝順にせよ、長上を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々生理に安んぜよ、非為をなすなかれ」の六言。
 「衍義」とは解説を意味するという。18世紀初め、程順則(ていじゅんそく)が持ち帰った。その教えがすばらしいということで薩摩藩主の島津吉貴に贈呈された。さらに江戸八代将軍の吉宗にも献上された後に和訳され、江戸時代の寺子屋の教科書として全国に広く普及し用いられた。」とネットで調べた沖縄大百科には書かれている。
 明時代の皇帝が国民に与えた教訓であるから、今で言う「教育勅語」に近いのかもしれない。

 因みに最初の㋑は、
 意見寄言や 身の上のたから 耳の根ゆ開きて 肝に留みり
 沖縄の発音は、
 イチンユシグトゥヤ ミヌウィヌタカラ ミミヌニユアキティ チムニトゥミリ
 意味は、
 他人から受ける意見や教訓は、我が身にとってはこの上ない宝である。だから、しっかりと聞いて忘れることがないように、心に留めておきなさい。

 最後の㋜は、
 勝り不勝りや 肝からどやゆる 念の入る者に 下手やねさみ
 沖縄の発音は、
 スグリスグリヤ チムカラドゥヤユル ニンヌイルムヌニ フィタヤネサミ
 意味は、
 何事においても上手・下手というのは、その人の心がけ次第である。物事に集中し心を打ち込んで事を成す者に、下手はないはずである。

 程順則は1663年生まれで、5回も中国を訪問し中国語にも堪能である。江戸にも行き、新井白石荻生徂徠などとも面談している。1734年に亡くなっている。

 文章が長くなったので、8月31日、9月1日に岡山で開かれた守大助を支援する会等の中四国交流集会の報告は後日とする。



我が家の絵馬  徳島・大龍寺   1993年5月2日購入


どどいつ入門(中道風迅洞 1986年 徳間書店
○観世音 菩薩が一体 ほしいと思う さみだればかりの 昨日今日
○待ちぼけ待ちぼけ とうとう来ない 月の色まで 寒くなる
○カレーが匂う どこかの家で 町中おさない 妻ばかり