連れ合い、帰徳。弟の突然の来訪、「文学に描かれた戦争 徳島大空襲を中心に」(ことのは文庫)

 先月24日から、東京(母親大会実行委員会参加と息子の配偶者との食事)、水戸(長女の家の手伝い)、柏市で墓参り、に行っていた連れ合いが5日に帰ってきた。この2週間、日肝協総会で明石市B型肝炎訴訟全国原弁会議参加で名古屋などもあり、おかげで家事雑用が大変忙しかった。
 夜7時50分徳島着の飛行機で帰ってきたのだが、私が飛行場に着く寸前に千葉県松戸市に住む弟から電話がかかってきた。今、徳島県の神山温泉にいるとのことで、明日我が家に寄ってもよいかというのである。もちろん「大丈夫」と返事したのだが、少ししか居れないという話だった。6日9時過ぎに来た彼は、先月29日から車で四国に来て、山に登っていたそうだ。伊予富士・三嶺・笹が森などなど、景色も良かったと言っていた。この季節、笹が森では霧氷も見ることができた。11時半の東京行きのフェリーで帰るというので、20分位の慌ただしい滞在であった。元気そうで何より。十数年前にも鳴門に来ていると電話がかかってきて、剣山に登るというので、私も仕事を休んで一緒に登ったことがある。


 徳島文学書道館が発行している。徳島も他の地方都市と同じように戦争中には米軍による大空襲に見舞われた。ウィキペディアによると、以下のように紹介されている。
 「徳島大空襲は、太平洋戦争末期の1945年7月4日未明に、徳島県徳島市が受けた空襲のこと。なお徳島市は、B-29による空襲を、同年6月1日から7月24日までの間に大空襲を含め7回受けている。 中略 7月4日の未明、第21航空軍第314航空団の129機のB-29新町川河口から徳島市の上空に飛来。午前1時24分から同3時19分まで、1時間55分の間焼夷弾を投下し続けた。諸説あるが、徳島市の発表では、この空襲により当時の徳島市の約62%が焼失し、人的被害は死者約1,000人(男性431人、女性553人、性別不明17人の説もあり)、けが人は約2,000人、被災者は70,295人、罹災世帯は17,183世帯とされている。」
 この本には、徳島生まれや住んだことのある、徳島にゆかりのある小説家の作品が収録されている。本の表紙にある左上の山は城山。徳島市の中心街はご覧の通りの焼け野原になった。
 収録作品は以下の通り。
瀬戸内寂聴「多々羅川」
○森内 俊雄「眉山
○富士 正晴「帝国軍隊に於ける学習・序」
○海野 十三「降伏日記」
 「帝国軍隊に於ける学習・序」では、著者の徴用工としての寮生活の経験も書かれている。「寮は軍隊にも刑務所にも似ていたような気がする。そこでわたしは闇がなくては満足には生きて行けないらしいこと、徴用工とは体のいい監獄部屋のタコのようなものであること、徴用工を必要以上にとって工場でぶらつかせておいても配給物その他の横流しで工場がもうかるのでやたらにとりたがること、つまり役所と資本家のなれ合いで徴用工が製造されるのであること、そのタコが逃げ出さぬように警察が頑張っていること」。
 先日、韓国の裁判所で断罪された日本企業の韓国人徴用工への仕打ちは、こんな甘いものではなかった。
 富士正晴は1944年、30歳の時に招集され、弾薬の運搬兵として中国を転戦している。その体験を何編か小説にしている。本書は1964年の直木賞候補作品に挙げられた。未来社から1964年9月に同じタイトルで作品集が出されている。収載作品は本タイトル以外に、「童貞」「傍観者」「南雄の美女」「崔長英」「足の裏」「死ぬ奴」であった。いずれも軍隊時代の経験が描かれている。この時期に購入して読んだ。多分、大学の卒業論文の資料として読んだのだろう。

 我が家にある彼の作品は「競輪」(1956年)「酒の詩集」(1793年)。

今年の目標
①中国語検定2級合格 3月に不合格だったので、次回11月25日をめざす。もう11月はじめに入ってしまったが、大変心もとない事態だ。
魯迅全集全20巻読了 現在、第6巻50ページまで読了。さっぱり進まない。
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○舟が着く着く百廿七艘 様がござるかあの中に
丹波雪国積もらぬ前に 連れてお出やれ薄雪に
○辛苦島田にけさ結うた髪に 様が乱しゃる是非もない
○花は折りたし梢は高し 眺め暮らすや木(こ)の下(もと)に
○あだけ甚兵衛様蔦山通ひ 蔦の立石星月夜