日本近代思想批判
- 作者: 子安宣邦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/10/17
- メディア: 文庫
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本書は、1996年に岩波書店から「近代知のアルケオロジー 国家と戦争と知識人」を改題し、大幅に増補した新編集版。
著者は「序にかえて」で「民俗学や支那学、そしてまた国語学や倫理学など近代日本に成立する学問的言説が、そのものとして帝国日本の学問にほかならないゆえんを、それぞれの言説的機制を暴きながら徹底して明らかにする」としている。
柳田国男の民俗学は「辺地の住民の習俗や俚謡を、また歴史外の平民の生活を『国民』を主題として解釈する学、その主題のもとに綜合する筋道をそれらに読みとっていく学」として位置づけている。そして柳田の築き上げた民俗学は「『一国民俗学』は、日本の近代国家の帰結としての戦争と敗戦のなかで、『国民の結合』に捧げられた己の祈りを『固有信仰』の語りに残して、その生命を終えたのである。」と指摘する。
「国語」か「日本語」かについても、日本の近現代の歴史過程において政治的言語をもって構成された概念である」として、「日本語」という言葉がどういう経緯で登場したか、解き明かしている。そして「『日本語』概念が登場するのは、日本の近現代史におけるはっきりとした歴史的、政治的な局面においてである。(戦前)から(戦後)にかけて--戦争の前後を通じてであることに十分な注意を払う必要があろう」としている。日本が、日清日露戦争・15年戦争を通じて、朝鮮・中国・その他のアジア諸国を、植民地として支配した時、「国語」という概念が通用しなくなる。他民族を支配してからは、『大東亜共栄圏』には複数の民族が生存し複数の言語が使用されることになった。日本が支配する地域に「日本語」を普及することは、植民地支配を確立・安定するために必要欠くべからざる課題となった。
さらに、日中戦争・教科書問題・原爆記念館・水俣病などで、日本の近代がいかにゆがめられて育て上げられてきたか、言葉のすり替えがおこなわてきたかを明らかにしている。