また、B型肝炎訴訟で東京へ

 全国の原告団弁護団は、昨年内の和解が国のかたくな姿勢によってできなかったため、今は年度内解決のために努力している。最大の不一致点は20年を超した被害者・原告を救済の対象とするかどうかである。
 各会派の国会議員を訪問して話しても、国の姿勢はおかしいと言っている。国が姿勢を改めないのであれば、議員立法によって、国が対象としない被害者を救済するしかない。
 先週に引き続き、国会議員に対して協力のお願いをすることになった。全国各地の原告団の中でも、その地域の代表の原告団長は、身を粉にして動き回り、議員に働きかけている。大阪でも共同代表の久永さんはじめ、世論を動かすための努力を続けている。
 23日に、再び東京に行くことになった。国が、裁判所の和解所見に基づいた、被害者・原告が求める和解案を示さない限り、そのツケはますます大きくなるばかりであろう。

 国は、以下のような被害者を切り捨てようとしている。これは、裁判所に提出した意見陳述書の要約である。

 原告1 肝炎発症によって狂った人生
 昭和58年、肝炎が悪化し、発熱し、常に吐き気がし、体がだるく、全く動けなくなりました。立ちあがることさえできなくなり、意識がどこか遠くにあるように感じていました。トイレの時だけ、無理をして動いているような状態が何カ月も続きました。慢性肝炎が悪化しているときは仕事どころか普通の生活すらできなくなるのです。
 でも肝炎の辛さは、他人はおろか、家族にすら分かってもらえませんでした。入院して2ヶ月後,ようやく歩けるようになり,リハビリの為の散歩をしていたら,バッタリ夫と義理の父に出会いました。すると、私が,元気そうに見えたのか,入院費がかさむことを懸念したのか,その日のうちに退院させられました。
 そんな退院ですから,すぐには家事や育児や家業の手伝いもままならなかったのですが,体調を理解してもらうことはできませんでした。休み休みでも、何とか起きて夫の仕事を手伝っていると「体の弱い嫁をもらった」と不機嫌そうに嫌みを言われました。徐々に嫁ぎ先での居場所がなくなっていきました。体が辛くても分かってもらえない,家事育児仕事をしなければならない,でも体はついていかない。誰にでもわかる怪我をしたのだったら良かったのにとも思いました。精神的にも肉体的にも辛くて辛くて,長男を道連れにして自殺しようかと何度も考えました。夫からは、病院通いが続く私に,したくて通院しているわけでは決してないのに,「病院好き」とまで言われました。
 結局,平成14年に離婚しました。


 原告2 娘への感染に苦しむ母親
 これまでの長い闘病生活のなかで、一番つらい思いをしたのは、娘への感染でした。私の感染が判明して、しばらくしてから、娘を小児科に連れて行き、検査をしました。どうか娘だけは健康でいてほしいとの一心でした。 検査の結果 、娘にも感染していることがわかりました。娘はまだ小学生で、人生のすべてがこれからという時に、ウイルス感染が判明したことによるショックは言葉では言い表せません。私一人の感染ならば、自分自身が苦しめばそれで済むことです。しかし、娘の苦しみは私が代わってやることはできません。私は、「娘の感染は私のせいだ。」「私が感染していなかったら、娘は、普通に健康な生活を送ることができたのに。」と自分を責め続けました。それでも、娘は、のびのびと育ち、学校を卒業して、医療関係の仕事につきました。娘が、日常生活のなかで、少しでも疲労や身体のだるさを訴えると、私はすぐに肝炎の発病ではなかろうかと疑ってしまい、気が気ではありませんでした。
 娘が25歳になったころ、母子感染の事実を伝えました。その当時、娘はまだ発病していなかったので、「母さんのせいではないから、大丈夫よ!」と明るく受け止めて、毎日を元気に過ごしていました。私は、娘のそうした強さにも大変励まされました。しかし、B型肝炎の感染の原因が予防注射の回し打ちであることが、報道されるようになり、この裁判がはじまろうとしていた矢先、娘の発病が分かりました。
 裁判への参加は,娘の将来を思ってのことでした。

 原告3 治療費1800万円以上〜今なお続く損害〜
 1985年,猛烈な体のだるさを覚え,会社の診療所に行きましたが良くならず,大阪の病院に入院しました。1987年には京都の大学病院に入院,その後大阪の別の病院で治療し,1992年には東京の医師に治療指示を受けに行き,インターフェロン治療を受けるように指示され,それから現在まで大阪市・香川の病院で治療を受け続け,治療費は現在までで1800万円以上になります。


 被害者の声を、国は真摯に聞いているのか、心の通う政治を求めるのはいけないのか、考えさせられることばかりである。



上の写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 兵隊馬


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  ●谷の小薮に 雀は留まる 止めて止まらぬ 色の道
  ●御座る御座ると 浮名を立てて 様は松風 音ばかり
  ●恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす