中国旅行6 九寨溝・黄龍・成都・楽山大仏  高良倉吉「琉球の時代」

 成都の武侯祠を案内してもらっている時、ちょっと気になって現地スタッフの蒲さんに聞いてみた。重慶日中戦争(当時は支那事変と言った。 中国では中国抗日戦争)の時日本軍による無差別爆撃があったが、成都はどうでしたか」。彼は、「知らない」と答えたが、本当のところはどうかわからない。日本の観光客に不愉快な思いをさせないために黙っていたのか。
 そこで、徳島に帰って調べてみた。そうすると、こういう記事が眼についた。

  日中戦争で無差別爆撃、日本政府に謝罪と賠償求め、原告代表2人が陳述

 「2009年10月5日、日中戦争中に四川省成都市で日本軍による無差別爆撃に遭った被害者22人が日本政府に謝罪と国家賠償を求めて起こした裁判で、原告側代表の2人が陳述を行った。華西都市報が伝えた。記事によれば、日中戦争中の1938年から44年の間に旧日本海軍第2連合航空隊が2手に分かれ、成都重慶で無差別爆撃を行った。成都への攻撃は少なくとも21回。39年6月の爆撃では一般市民226人が死亡、600人が負傷。最も被害が大きかった41年7月の連続爆撃では一般市民698人が死亡、 1368人が重軽傷を負った。」この裁判は今でも続いている。
 四川省省都成都から重慶までは約350㎞、汽車だと2時間10分、バスだと7時間半かかる。


 2,500年の歴史を持つ成都は、今は大きな発展を遂げて、市民が生きいきと生活しているが、70数年前にはこんな事実もあった。


 成都で宿泊した、「成都天府陽光酒店」前の、朝の通勤風景


 成都の「パンダ繁殖研究基地」


 武侯祠の前で、入場券を買ってくるのを待っていると、中国人のライダー達が、「拍照」(写真を撮る)といって、カメラを私に差し出してきた。「好」といって、写真を撮ってあげたのだが、中国人と間違えたのであろうか。

 
 都市への部差別爆撃は、ナチスドイツが始めたものを、日本軍も見習ったものだが、アメリカも世界大戦の時、東京や大阪などを含め地方都市へも爆撃を行った。その最たるものが、広島・長崎への原爆投下であった。非戦闘員を無差別に攻撃するのが近代戦争だが、今でもその残虐行為が地球上では続いている。
 
 私が住む徳島でも徳島大空襲があった。
 ウイキペディアによると、
 「硫黄島を経由し、7月4日の未明、129機のB-29新町川河口から徳島市の上空に飛来。午前1時24分から同3時19分まで、1時間55分間焼夷弾を投下し続けた。この空襲により当時の徳島市の約62%が焦土と化し、見渡す限りの焼け野原となった。人的被害は当時の11万人余りの市民のうち、死者約1000人(984人との説も)、けが人は約2000人、被災者は約70000人であると伝わる。」とあった。徳島市から20数㎞も離れた阿波市からも、その赤い炎が見えたという。



 この本は、1980年に刊行されたものの文庫化である。
 沖縄が琉球といって国家を成していた時代の、琉球人の意欲的な動きが書かれている。中国・日本はもとより、朝鮮、インドシナなど各地と交易をして、国を発展させていた。開放的な沖縄の人の性格は、こういった海外との交流が培ったものか。ちまちました日本の政治家に、県の運命を握られている現状を考えると、「琉球国独立」という言葉が、全く不思議でなく感じられる。


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
 ○心性根は 直せば直ほる 顔の痘痕(あばた)は 直りゃせぬ
 ○可愛い子供を 寺へは遣るな 根性曲がりに 仕て戻す
 ○鉦を叩いて 仏に成らば 石田鍛冶町や 皆仏