田山花袋

 田山花袋といっても、知らない人が多いだろう。明治・大正時代に活躍した作家である。彼の作品としては「蒲団」「田舎教師」しか読んだことがない。
 先日、古書店「モウラ」に行った。そこには、明治・大正・昭和前期の雑誌などが多くあった。多分、旧家から一括して売りに出されたものではないかと思う。何点か買いたいものがあったが「日露戦争画報 遼陽占領記念写真帖」という雑誌を購入した。明治37年10月刊である(1904年)。日露戦争当時の写真が満載されている。この雑誌以外にも日露戦争関係の写真画報が数点あった。これは第9巻と題している。当時の日本の日露戦争に対する熱狂振りが察しられる。

 写真もさることながら、この雑誌に従軍記者として田山花袋を発見したので買う気になったのだ。「わが遼陽行」と題して寄稿している。ついでにネットで「田山花袋文学館」を探して、彼の略歴を調べてみた。以下の通りである。

田山花袋について

ふるさと 〜館林と田山花袋
田山花袋は、明治4年12月13日館林に生まれました。本名は録弥と言います。田山家は、旧館林藩主秋元家に仕え、江戸時代に山形から館林に移り住みました。
花袋は一家して上京する明治19年まで館林で過ごしました。館林東学校に学ぶかたわら、旧館林藩儒者吉田陋軒に漢学を学び、この頃から漢詩文を雑誌に投稿するなど、文学に目覚めていきます。
ふるさと館林での生活は『ふる郷』『小さな鳩』『幼なき頃のスケッチ』などに描かれています。

文学者 花袋 〜田山花袋と文学〜
上京した花袋は、明治24年尾崎紅葉を訪れ、小説家を志します。英語を学びながら西欧文学に触れた花袋は新しい文学を試み、明治40年『蒲団』の発表により、日本の自然主義の確立者として、近代文学界に大きな足跡を残しました。
続いて『生』『妻』『縁』の三部作や、『田舎教師』を発表。晩年には歴史小説や、心境小説に取りくみ、その一生を文学ひとすじに歩みました。

田山花袋略歴
明治 4年 (1871) 12月13日、田山十郎・てつの次男として生まれる。
10年 (1877) 5歳 父十郎西南戦争にて戦死。館林東学校に入学。
16年 (1883) 11歳 この頃から吉田陋軒に漢学を学びはじめる。
19年 (1886) 14歳 一家して上京。
22年 (1889) 17歳 この頃、松浦辰男に和歌を学ぶ。
24年 (1891) 19歳 尾崎紅葉を訪ねる。小説「瓜畑」を発表。
27年 (1894) 22歳 和歌を「文学界」に投稿。
29年 (1896) 24歳 この頃、島崎藤村国木田独歩に出会う。
32年 (1899) 27歳 太田玉茗の妹りさと結婚。博文館に入社。
35年 (1902) 30歳 『重右衛門の最後』を発表。
37年 (1904) 32歳 日露戦争第二写真班員として従軍。
40年 (1907) 35歳 『蒲団』を発表し、自然主義文学の代表となる。
41年 (1908) 36歳 『生』を発表。
42年 (1909) 37歳 『妻』『田舎教師』を発表。
43年 (1910) 38歳 『縁』を発表。
45年 (1912) 40歳 博文館を退社。
大正 5年 (1916) 44歳 『時は過ぎゆく』を発表。
6年 (1917) 45歳 『一兵卒の銃殺』『東京の三十年』を発表。
13年 (1924) 52歳 『源義朝』を発表。
昭和 5年 (1930) 58歳 5月13日没、東京多磨墓地に葬られる。

(年齢は、明治5年暦法改正を考慮し満年齢で換算)

 従軍記の冒頭の一部を紹介しよう。この文章は総ルビである。
 遼陽の大戦、真に是れ世界に於ける二十世紀劈頭の偉観−而してわれは與らず。
 遼陽!遼陽!これ、われの金州南山攻陥以来、口に唱え、懐に忘れざりしところにして、いかなる山の隈、いかなる海の濱にも、この二字は竟にわが胸を去りたることなかりき。而してわれはこの大戦を観るを得ざりしにあらずや。

 田山は従軍途中で病気にかかってしまったようだ。

 ところで、自著「孺子の牛」の「66.流行歌」で「錦絵の中の朝鮮と中国」(岩波書店)を紹介したが、そこに掲載された「日清韓談判之図」をモウラで見つけたのだ。私の財布では重いので、どうしようかと考えている。他にも気になる錦絵が何点かある。明日は歯科検診で徳島に行くので立ち寄ってみようかと思う。