ルポ労働と戦争

 憲法9条(1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。)は日本の平和と世界の平和に大きく貢献している。実質的な改憲が行われているとはいえ、9条が歯止めとなって、日本の本格的海外での戦争参加を阻止している。
 著者はこう書いている。「日本は憲法九条で軍隊を否定しながら、自衛隊という軍事力を持っている。この現実のねじれは『専守防衛』というキーワードで正当化される。日本は不正な侵略を受けたときに限って武力を行使するのであって、保有する兵器を外国で使うことはない、と。これをひっくり返せば、九条が消えれば専守防衛というキーワードも消え、『外国で兵器を使うこともありえる』ということだ。」
 現在のすすんだ?兵器は、分業化されていて労働者は何を作っているのかわからない。知らないうちに戦争に組み込まされている恐ろしさがある。ボールベアリング、半導体、ビデオカメラなど、どれをとっても「誘導ミサイル」などに使われている。液晶パネルも「戦闘爆撃機にディスプレイ」に使用されるなど、兵器と民需製品との境界線はない。本書は憲法九条を変えることによって、労働の質がどう変化するか教えてくれる。
 日本では憲法9条があるために自衛隊イラク派遣に際しては、国会で「自衛隊を戦地へ派遣することは憲法違反である」などの議論がされた。ところが小泉元首相は「自衛隊が活動する地域は非戦闘地域である、これがイラク特措法の趣旨」という珍答弁を行った。全く、国会と国民を愚弄した発言であった。
 本書より先に著者は「戦争で死ぬ、ということ」を出版している。戦後生まれの人間は戦争をじかに見ているわけではない。ゲームなどでの戦争では、その実態を見ることはできない。日本でも「原爆」をつくる研究が進んでいた。どちらが先に作るかで、「被爆体験」は大きく変わる可能性があった。
 
戦争で死ぬ、ということ (岩波新書)

戦争で死ぬ、ということ (岩波新書)

 手塚治・小田実などの空襲体験、伏龍特攻隊、フィリピンでの敗走体験、被爆体験、原爆を作るためのウラン鉱石堀など、多くの人の戦争体験を掘り起こし、戦争の非人間性を書いている。著者は2001年10月のアフガン戦争をめぐっての国会論戦を聞いてこう考えた。「米国が何をやるのかわからないのに、米国を全面的に支援するなどということが、あってよいのだろうか。私はこの国会のやりとり全般から、米国と日本の関係は会社に似ている、と思った。米国は社長で日本は部長。あるいは日本は、米国という巨大な『持ち株会社』の下にぶら下がる『事業子会社』といってもいい。根本方針は持ち株会社が決める。子会社は、与えられた持ち場でベストを尽くすだけである。」
 太平洋戦争以降、一貫して戦争を続けてきた国は、世界広といえどもアメリカしかない。戦争を続けている国に、無条件に追随していく事がどれほど危険なことか、理解されるのである。