B型肝炎訴訟 大阪地裁で意見陳述

 昨日、大阪地裁でB型肝炎訴訟の公判が開かれ、連れ合いと参加した。私と59歳の男性が意見陳述した。先に陳述した匿名原告の男性の話は、肝炎患者のたどる人生そのものであった。大阪地裁のすぐそばで生まれた彼は、生きていくために2つの仕事を掛け持ちでしているときに発病し、職場から追い出され、塾をしながら暮らしていた。不景気の影響で塾だけでは生活できず、辛い療養生活を送りながらもやはり別の仕事もせずにはおられなかった。好きな人ともB型肝炎のために結婚できず、独身でいる。仕事から家に戻ってもそこには誰も待っていてくれない。普通の幸せな家庭を、国のずさんな医療行政のお陰で築けない。
 憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という生存権を、国によって奪われている。
 当日の法廷は、支援者・原告など70名あまりが傍聴し、満員であった。意見陳述の後、大阪弁護士会館で報告集会・原告団会議があった。その間で記者会見もし、私も意見陳述についての感想を述べた。
 原告団会議では、1月11日に札幌地裁で出された地裁の所見に対する対応を話し合った。1月22日には東京で原告団の総会が開かれ、各地の原告団の意見を集約して、札幌地裁の所見に対する態度を決める。
 民法第724条では「不法行為による損害賠償の請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から三年間行使しないときは、時効によって消滅する。不法行為の時から二十年を経過したときも、同様とする。」と規定していて、私のような場合、今回の札幌地裁の所見のキャリアに対する救済の対象から外れるようだ。全くおかしいことだ。国は血液の中に肝炎を発症するものが存在することを、1960年代中ごろには承知していたにもかかわらず、それを放置していたのに20年の除斥期間を主張する。これでは多くの被害者(B型肝炎のためにこれまでどれほどの方が亡くなったのだろうか)への責任をほおかぶりしている。
 大阪地裁での私の意見陳述の概要は、以下のとおりである。

1.最初に、私がB型肝炎ウイスル感染を知った経緯についてお話します。
  私は、東京都大田区馬込で1946年2月に生まれ、そこで予防接種を受けました。
私がB型肝炎ウイルスに感染していることを知ったのは、今から32年ほど前です。その当時、病院の事務職をしていました。そこの病院では、肝炎治療に熱心な医師がいて、患者会(肝談会)を作ってその指導もしていました。病院では、職員がB型肝炎(当時はA型肝炎ウイルス・B型肝炎ウイルスは発見されていたが、その他の肝炎については、非A非B型肝炎と言っていました。)に感染しているかどうかを調べました。これは、患者さんからうつされない、患者さんにうつさないという医療の安全管理を目的にしたものです。直接患者さんに接する医療職(医師・看護師・臨床検査技師など)はもちろん、他の職種でも希望者に対し検査をしたと思います。私も、検査に応じました。その時に、私がB型肝炎ウイルスに感染していることを知ったのです。私は感染しているとは夢にも思わなかったので、非常に驚きました。発見されたのは、私にとって全くの偶然と言ってよいでしょう。
B型肝炎がどういう病気かも全く知らず、またその病気自体が、当時世間ではあまりポピュラーな病名ではなかったので、とても不安に思いました。私を診察した医師は、私の親兄弟に感染した人がいるかどうかたずねました。私は多分いないだろうと答えました。当時、私の親兄弟で肝炎を発症した人がいなかったからです。そうすると医師は、感染の原因は集団予防接種による注射針の回し打ちだろうと言いました。少しでも肝炎に関心を持っている医師にとっては、B型肝炎ウイルスの感染源の多くに、集団予防接種の時の注射針の回し打ちがあることは常識だったのです。
また、医師はこの病気はいつ発症するか分からないので、定期的な血液検査が必要だともいいました。さらに、このウイルスは血液の中に入っていて、血液を媒介して他人にうつるから、気をつけなければいけないともいいました。その時には、私にはまだ小学校にも行っていない二人の娘がいました。私は妻と子供に、私が使ったもの(ひげそりや歯ブラシ・コップなど)は触ってはいけないと言いました。それほどきつく言ったつもりはなかったのですが、私がこの裁判に原告として参加すると伝えたとき、長女は、「そういえば昔、お父さんに触るなと言われた覚えがある。」と言いました。幼い子供にとっても、後々まで心に残った印象的なできごとだったのでしょう。
それだけでなく、医師は私に家族についても感染の有無を調べたほうがよいとすすめたので、ウイルス検査を受けさせました。私が感染していなければ、子供に少しの間でも痛い思いをさせないですんだのにとも思いました。

2.次に患者会(徳島肝炎の会)を作った経緯についてお話します。
  先ほども述べたとおり、その病院には患者会がありましたが、それは主にアルコール性肝障害の患者さんを対象にしたものでした。アルコール性の場合は、アルコールをやめれば肝臓は良くなるのですが、ウイルス性肝炎の場合は完治する治療法もなく、対症療法が主な治療法でした。医師も手探り状態で治療を続けていました。
 当時の徳島は、肝がん死亡率が全国第一位(1979年度死亡者153名)、肝硬変死亡率全国第二位(1979年死亡者数183名)で多くの肝炎患者がおり、全国有数の肝炎汚染県になっていました。
今でも肝炎患者については、就職・結婚・職場や学校などでの様々な差別・偏見・いじめがあります。自分には全く落ち度はないのに、肝炎を発症したりキャリアであるためにあらぬ偏見を持たれることは大変に辛いことです。私自身も、いつ発症するかもしれないという恐れを抱いていましたから、世間からの理解を得られない発症した患者にとって、治りたい・治したいという思いは切実なものでした。医師は、キャリアの中で肝炎をだれが発症するか全く分からないと言っていました。現在では、キャリアの内15%程度が発症するようですが、B型肝炎ウイルスの型の検査方法が確立していない当時にあっては、だれが発症してもおかしくないと思われていました。ですから、私にとって発症への恐れは深刻でした。発症の確立が1%でも100%でも当人にとっては、100%の確率なのです。
そこで、すでに発症している患者だけでなく、こういう私の不安を解消するためにも、肝炎の実態を知ってもらい、この患者が置かれている状況を少しでも改善し、肝炎患者が安心して療養できる生活・医療保障の改善と、治療法の確立を求め、患者の親睦を図ることを目的として患者会を作るということは、私にとっては必然でした。会の会則では「会員相互の親睦と交流を通じて、一日も早く健康な体をとりもどし、社会復帰できるよう運動をすすめる。」としています。ごく当たり前の願いの実現が、患者会の活動の基本でした。
  
3.私は患者会活動に30年関わってきました。
  徳島肝炎の会は1980年6月にできました。私が34歳の時でした。発足以来30年間、会の運営に関わってきました。会は当初8名の会員数で発足し、私は事務局長になり、会の運営に責任を持つことになりました。それは、私自身がいつ発症するかもしれないという、先ほども述べたような不安を持っていたからです。
  会ができた当時は、今のようにテレビや雑誌などで肝炎に関する情報を得ることはほとんどできませんでした。自分たちで学習会・講演会を企画してやるしかありませんでした。会の発足を世間から認知してもらい、多くの不安をかかえて苦しんでいる患者の支えとなるように、必死になって会長を中心に活動しました。
1981年7月に大規模な医療講演会(550名参加)を会で企画しました。当時の東大医学部長の織田敏次先生(厚生省の肝炎研究班の責任者)を講師にしました。講演会を成功させるために、1月から準備を進めました。県・徳島市、県・市医師会、看護協会、報道機関などへの後援依頼、県下内科系医療機関へのポスター掲示と案内チラシの配布依頼、大学病院・県立病院・日赤病院・健保病院・国立病院・厚生連病院など、比較的大きな医療機関への参加要請行動、徳島駅前での炎天下のチラシ配布など、病気を抱えている会員にとっては大変なものでした。しかし、医療講演会を成功させ、肝炎の会の存在をアピールし、肝炎に対する知識を持ってもらいたいという思いで皆が必死に取り組みました。
会の中心メンバーは、私と同年代の方ばかりでした。会長は、発症してから仕事を辞めて塾を経営して生活をしていました。食道静脈瘤の手術もした会長は、一時期、肝機能検査の数値が正常値以下になり、肝炎が治っただろうと医師にも言われ喜んでいました。会の役員も外れ、奥さんと一緒になんとか学習塾の経営で生活をやりくりしていました。ところが2〜3年後に再発し、食道動静脈瘤の手術を何回かしたりしていましたが、最後には肝がんを発症して中学生の息子さんを残して亡くなりました。
私は会員が亡くなると、お葬式によく参加しました。徳島市から車で2時間ほどかかる山に住んでいた会員さんのお宅にお焼香に行ったときですが、仏壇のそばに赤いランドセルが置いてありました。娘さんは小学校1年生になったばかりでした。また、ある患者さんは、自分の葬式の時にかけて欲しい音楽を決めていました。とても賑やかで陽気な出囃子でした。残された家族にさびしい思いをさせたくなかったからでしょうか。葬儀に参加した人は、みな涙をこらえることができませんでした。国の集団予防接種時の注射針の使い回しによる犠牲者となった皆さんは、B型肝炎ウイルスのため、この世に多くの心残りを置いて亡くなって行きました。同世代の若い人たちが亡くなることは、私にとってもいつ発症するのかという不安を増すものでした。

4.この裁判の原告になったことについて
  B型肝炎訴訟については、患者会活動をしていた関係から、北海道で提訴する前から知っていました。全国の患者会の交流会などで報告されていたからです。最高裁判所では国の責任を認め、和解協議が始まっていますが、いまだに国は誠意ある解決案を示していません。昨年7月に徳島でB型肝炎訴訟に関する宣伝行動が行われた時に、私も参加しました。そして、一日でも早くこの問題を解決するには、被害者である多くの患者が各地で声を上げなければいけないと考えました。
母親から母子感染した人がいます。姉は教員になりましたが、学校の教師間の懇親会で、皆の面前で校長からこの人はキャリアだと言われました。抗議をしたのですが受け入れてくれませんでした。精神的に参ってしまった彼女は、教師を辞めました。また、その弟は大学を卒業して徳島県内の大手企業に勤めていましたが、キャリアであることが会社にわかり、居づらくなって仕事を辞めました。再就職するには何か技術を持っていたほうがよいと思い、32歳で看護学校に進学しました(現在2年生です)。実習の一環でしょうか、学生相互で血液の採血をしたそうです。検査結果は本来個人情報ですから簡単には他人に知られないのですが、知られてしまいました。そこに勤務している医師(看護学校の講師もしている)は、彼に患者と直接かかわる職場には就かせないというようなことを言ったそうです。肝炎について基礎知識を持っていると思われる医療機関でも、まだまだ偏見が根強く残っています。彼と母親は何度も私たちの会に相談にきました。発症していなくてもキャリアであるだけで、受ける精神的苦痛・就職差別などはまだまだ強く残っています。
長年患者会に関わってきたものとして、このような事態をいつまでも放置してゆくわけにはいきません。また私はキャリアですが、それでも年4回の血液検査と年2回のエコー検査をしなければなりません。いつ発症するかも分からないと医師から言われているからです。患者達の生活が安定し、安心して治療に専念できる環境が、一日も早く整備されることを願っています。

5.札幌地裁の所見を受けて
 今週の火曜日,1月11日に札幌地裁から和解案が示されました。現在裁判を起こしている被害者や,これから裁判を起こす被害者は,この和解が成立することによって,救済されるかもしれません。
  しかし,私がお葬式に参列した多くの患者会の方は救済されないでしょう。国がこの問題を放置し続けた間に亡くなった被害者は,あまりに多すぎます。彼らの多くは,私と同様に予防接種の回し打ちの被害者でありながら,どのような内容の和解によっても救われないのです。
  国は,これまでの数十年間に亡くなった被害者のことも考えて下さい。多くの被害者が亡くなったという事実の重みを考えて下さい。
  彼らに対してできることは,真摯な謝罪,ただそれだけです。
  新聞報道によれば,国は早速和解案を受け入れるように調整しているそうです。その和解案の受け入れは,真摯な謝罪・反省に基づくものでしょうか。単にお金だけ渡せばすむと考えていないでしょうか。国の真摯な謝罪がなければ,いかなる和解案であろうとも受け入れることができないというのが,私の偽らざる気持ちです。
  私たちが受けた被害は,健康被害だけではありません。差別・偏見などによって,人間としての尊厳をも傷つけられているのです。これらはいくらお金を積まれても回復できません。国の,総理大臣の心からの謝罪がなければ償うことができないものなのです。
札幌地裁の裁判長は,わざわざ口頭で国の謝罪について言及したと聞いています。国はそのことの意味をよく考えて下さい。国の誠意ある対応を期待します。
以上

 今後は、①国が、生きて懸命に闘病している被害者だけでなく、すでに亡くなった方に対しても、きちんと謝罪する。②多くの被害者である患者が、勇気を持って国に対し提訴してほしい。そのことが、国が二度と謝った医療行政をすることをなくす歯止めになるから。国が誤った行政をすれば、必ずそのつけは国に跳ね返ってくることを示すことが大事。②被害者に対しては、広い意味の医療費助成制度の確立だけでなく、仕事をする権利をも奪われた患者に対して、所得補償制度を確立してほしい。 と願う。これらのことを実現するには、国の自主的な行動に期待することは困難と思う。患者・被害者が、個々に声を上げるだけでなく、患者会を通じて制度の確立を求めてゆくことが大事だと、今回の裁判に参加し原告の皆さんと一緒に行動してきて感じた。
 下は、徳島新聞2011年1月15日の記事


 上の写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 猩猩だるま