”きよのさん”と歩く江戸六百里

 2月13日〜17
には、またB型肝炎訴訟で東京に行くことになった。政府の理不尽な対応は、患者・被害者をとことん苦しめる。

“きよのさん”と歩く江戸六百里

“きよのさん”と歩く江戸六百里

 石川英輔が書いた「江戸人と歩く東海道五十三次」で、表記の本が紹介されていた。そこで読む気なった。「江戸人と歩く東海道五十三次」では以下のように紹介している。
 「私の感想は、はじめて泉光院日記を通読した時のものに似ていた。だが正直なところ、女性であることをものともせず、徹底的に前向きにかつ豪快な旅を記録した『きよのさん日記』の方が楽しかった。 中略 きよのさん、つまり三井清野は、現在の山形県鶴岡市、当時の酒井氏十四万石の城下町で裕福な商家の娘に生まれた。男の兄弟がいなかったため家つき娘として十六歳か十七歳で婿を取り、男女二人の子をもうけた。この時代としては、経済的にも社会的地位としても、これ以上自由気ままな立場はないという恵まれた女性だった。」
 31歳の時に夫のすすめで、上方一周の旅に出た。当時、女性の一人旅は規制が厳しかったためと道中の安全のため、同行者は下僕の八郎治と親類筋らしい武吉。
 出発したのが文化14年3月23日(1817年5月7日)、戻ってきたのが7月11日(1817年8月23日)。108日間、およそ600里の旅であった。ところで、一里は36町(丁)3.9273km。1町は109.09m。およそ2,400㎞の長旅の間、訪問したところは、日光・江戸・伊勢・奈良・大阪・京都・善光寺などに及ぶ。吉原などの遊郭、歌舞伎鑑賞、江戸藩邸見学、大量の買い物、関所ぬけなど、スリル満点でしかもグルメな旅行であった。
 この時代、無銭旅行もかなり行われていたのに比べ、馬や籠も利用して、今で言うならばタクシーを乗りまわしての、悠悠たる旅であった。江戸や伊勢・大阪・京都などでは、知り合いなどにそこの名所や有名料理屋に案内されている。
 きよのさんの道中日記だけでは分かりずらいが、著者の金森敦子の綿密な資料により、きよのが旅した当時の状況、町の様子が生き生きと再現されていて、きよのと一緒に旅をしているような気分にさせられる。
酒井氏の江戸藩邸なども、きよののように藩とつながりの商人にたいしては対応も丁寧である。若殿が不在の時などは、その部屋等も見学させている。
 吉原見学については、「吉原へ参り、中ノ町の女郎の揚屋入り、又見世の様、聞きしにまさりて見事。吉原を真直ぐにつとしくり、右にまわり、中頃に出、左つ方に行く。ぐるりとまわり、又中ノ町、真直ぐに通り見候。吉原の美々しき事、話よりはおそろしく」と記述している。
 関所抜けの十数度しているようだ。最初は緊張しただろうが、後の方では関所抜けのプロで(どこでも裏道はある)、的確に情報を入手して、女性には厳しい関所のチェックをすり抜けている。いらぬごたごたを引き起こさないようにするためにも、関所抜けは女性にとって必須であったようだ。旅の途中にある名所旧跡を多く訪問している。有名な神社仏閣の秘仏などは、当時から有料で見ることができていて、かなりの金額を取ったようだ。
 あとがきで筆者はこう書いている。「ゴージャスでスリリング、三井清野の旅はこれに尽きる。財力は男女差を越えたといってもいいだろう。江戸時代といっても、封建制度の中で忍従を強いられた女性ばかりでなかったことは清野をみてもわかる。財力にあかせた旅であったが、嫌みのないのは清野の性格によるのだろう。彼女は女性にはめずらしいほど行動的で、湿った情感をまじえずに、ものごとをきちんと見ることができた。それがこの旅日記のすがすがしいところだ。
 この本は、是非文庫本にして多くの人に読んでもらいものだ。



上の写真は宮内フサ(1985年102歳で死去)作品⑲ 寝牛(左は101歳)


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  ●茅も売りたし 麦刈り取りて 羽織仕立てて 親も子も
  ●ひさご屑屋に 蚊遣りを焼(た)きて 綾や錦と 夕涼み
  ●親子妻とも 田を植えしまひ 神に千年の 種を待つ