守大助の会役員会と「いま、憲法の魂を選びとる」

 16日(祭)は守大助さんを支援する徳島の会の役員会があった。役員会の前に、恒例の徳島駅前での宣伝行動を行った。台風が各地に大きな被害をもたらしたが、徳島では大きな被害はなかった。台風の余波で時折強い風が吹いたが、9人が参加。守大助さんの支援を求めるチラシと、映画「約束」のチラシをセットして配布した。

 映画「約束」は、名張毒ぶどう酒事件の無実の死刑囚奥西勝さんの生涯を描いた作品である。犯人とされた奥西さんは現在86歳、事件から51年が経過し健康を損ね、生命が大変危機的な状況にある。
 チラシの中で主演の仲代達矢さんは、「半世紀近く拘置所に閉じ込められている奥西さんの心境は測り知れません。私がこの状況に追い込まれたらどうなるか、そういう気持で演じました。60年俳優をやってきた中で、私にとって記念碑的な作品です。」と述べている。各地で自主上映がされているが、徳島では国民救援会徳島県本部の主催で、9月29日(日)に郷土文化会館で上映される。上映は、10時半からと13時半からとの2回。前売り券は1,000円、当日券は1,300円。 守さんのチラシを配り署名のお願いをしていると、映画「約束」を高松で見て来たという人が、快く署名に応じてくれた。

 役員会では、会員の到達が418名(今年度目標450名)、署名が3,345筆(今年度目標5,000筆)と報告された。また、先月の役員会からの活動が報告された。当面の活動が提案されたが一番大事なのは10月26日(土)に開かれる国民救援会徳島県本部大会である。ここには記念講演の講師として、守大助さんの再審請求で守さんのえん罪を証明する意見書を書いた、池田正行先生が来ることである。先生は、守さんがA子さんの点滴容器に筋弛緩剤を入れたとする事案について、彼女の病気はミトコンドリア病メラスであるとして、守さんのA子さんとの関わりを否定している。現在、長崎大学から香川大学に異動となり今回の講演が実現した。多くの方が大会に参加して、守さんの無実を実感して欲しいと思う。

 今日は午後から、B型肝炎特措法説明会・医療講演会の事で、県庁と講師の玉木先生を大阪から来る弁護士と訪問する予定。その前に、自費出版「ブログで B型肝炎訴訟」の準備を進めているので印刷所に行く予定。


いま、憲法の魂を選びとる (岩波ブックレット)

いま、憲法の魂を選びとる (岩波ブックレット)

 内容は下記のとおり。
 ○あなたのおじいちゃまはねぇ  三木睦子
 ○この国は民主主義の国か  大江健三郎
 ○いま一度,魂を選びとる  奥平康弘
 ○意志と勇気が試されるとき  澤地久枝
 ○対談 国民主権を守る思想としての憲法  奥平康弘・小森陽一
 小森陽一九条の会の事務局長。他の5人は九条の会の呼びかけ人。
すでに、井上ひさし(作家)加藤周一(評論家)三木睦子三木武夫内閣総理大臣夫人)小田実(作家)は亡くなっている。

 九条の会は2004年6月10日のアピールの中で、以下のように呼びかけている。
 「私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。」

 安倍総理集団的自衛権の容認を目指しているが、憲法9条に全く違反するもので認めることはできない。

 三木睦子は、「あなたのおじいちゃまはねぇ」の中で、安倍総理の祖父の安倍寛についてこう語っている。
 「国民のために、あるいは、将来の日本のために働いていらした人でございます。帝国議会衆議院議員でしたが、1942年の翼賛選挙では、三木と同じく翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに当選し、当時の軍部主導の議会を批判してがんばられた方です。」
 「お孫さん(安倍晋三)は天下を取って総理大臣になっていらっしゃるのに、おじいさまのことをご存じないのですね。(中略)安倍(寛)さん、安倍さんと言わなければ、たぶん教えてくださる人もほとんどいないだろうと思うのです。安倍寛さんのことを思い描きながら、教えてあげなくてはいけないと、しみじみ思うのでございます。」
 今の安倍総理、祖母方の岸信介の全く悪い遺伝子を引き継いでいるのだろうか、安倍寛の平和への想いと全く正反対の道を進んでいる。

 ウィキペディアでは、安倍寛についてこう紹介している。
 「東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。「金権腐敗打破」を叫んで1928年の総選挙に立憲政友会公認で立候補するも落選した。1933年に日置村村長に就任する。その後、山口県議会議員などを経て、1937年の総選挙にて無所属で立候補し、衆議院議員に当選した。その後連続2期当選している。いわゆる“ハト派”であり、第二次世界大戦中、1942年の翼賛選挙に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、無所属・非推薦で出馬し当選した。戦後第1回の総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死した。」




我が家の絵馬  東京・湯島聖堂  2001年6月25日購入



どどいつ入門(中道風迅洞 1986年 徳間書店
あややみしきの 風吹くとても なびくまいぞえ 糸柳
○たったひとこと 言わせておくれ あとでぶつとも ころすとも
○腹が立つなら どうなとさんせ 主にまかせた このからだ