大栗清実医師 (大崎無産者診療所所長)

 大栗清実については、このブログの「高杉一郎と大栗清実と6号台風」(2011年7月20日)で触れた。
 そこでは、以下のように書いた。「この本(高杉一郎の『わたしのスターリン体験)』のなかに、私の知っている人物が登場している。こう書いている。「永浜が最初に私をひきあわせてくれたエスランティストは、上大崎で無産者診療所をひらいていた内科医の大栗清実だった。永浜の五高時代(注:今の岡山大学)のエスペラント仲間だという。大栗は私を歓迎するために、彼自身が作詞したエスペラントの歌をうたってくれた。『いくとせ、ふるさと来てみれば』のメロディーをそのまま、歌詞だけをエスペラントに訳した歌だった。」 大栗清実は(1901年−1980年の社会運動家、医師)、徳島県阿南市で生まれた。

 現在の岡山大学で医学を学ぶと同時に科学的社会主義についても学んだ。労働農民党に入党し、1928年三・一五事件で検挙される。そのため大学の医局に入局できず出獄後上京し、1930年大崎無産者診療所設立とともに所長になった。この無産者診療所は、1929年当時労農党代議士であった山本宣治が右翼のテロにより暗殺される事件がおき、解放運動犠牲者救援会(現在の国民救援会の前身)から「労働者・農民の病院を作れ」とのアピールが出されたことを機に作られた診療所である。このときのアピールを起草したのが大栗清実であった。1931年には日本無産者医療同盟委員長もつとめた。1933年治安維持法違反で逮捕されたのち郷里の阿南市で開業した。戦後は日本共産党に入党した。また、徳島県の民医連創設に多大な功績を果たしている。

 昨年12月には、大栗清実没後30年を記念して、「偲ぶ会」が開催され私も参加した。そこでは、大栗清実の息子さんである大栗丸人さんが父親について語った。ちなみに「丸人」(マルト)というのはエスペラント語で「三月」というそうで、丸人さんの誕生月で父親の命名ということだった。

 前回のブログで阿南市文化協会出版の「阿南市の先覚者たち」には、北條民雄らとともに大栗清実が取り上げられている。大栗のことについては今までにいろんな書物から知っているし(「民主医療運動の先駆者たち」 1974年 増岡敏和著など)本人の話も聞いたことがある。
 大栗の項は、この本の企画委員長の湯浅良幸が担当して書いている。何時の集会だったか忘れたが、大栗清実の顕彰碑を彼の出身地の阿南市に建てる話があった。そこで湯浅さんの話を聞いた。湯浅は若いころ大栗清実の勉強会に参加していた。社会を良くしたいと願う若い人たちがたくさん集まっていた。本の企画委員会では大栗は共産党なのでと、先覚者の一人に入れるのを渋る人がいたそうだ。それを湯浅が郷土の発展に尽くした彼を正しく評価しようと言うことで、先覚者の一人になったようだ。大栗については「阿南市の先覚者たち」(300円)を書店か徳島文学書道館で購入して、読んでいただきたい。「阿南市の先覚者たち」を私が購入したのは北條のことを書いてあるよりもむしろ、大栗について書かれているからであった。




我が家の郷土玩具  鎌倉張子  勅使河原作


どどいつ入門(中道風迅洞 1986年 徳間書店
○いやになったらなったでよいが あはぬむかしにしてかへせ
○われながら酒に女に溺れず酔はず 悪い月日の生まれつき
○瞼うへ下合せりゃ闇に 湧いて出てくる母の顔