むの たけじ

 むの たけじ(武野武治)の本を読むのは40年振りである。実は、もう亡くなっていると思っていた。紹介する本の中で、聞き手の黒岩比佐子はこう書いている。「むの自身、これまで何回も『故人』とかかれたことがある、と冗談のように語っているほどだ。だが、この場で強調しておくが、むのたけじは健在である。胃がんと肺がんからも甦り、93歳のいまなお、むのたけじ反戦・平和のために全身全霊を捧げて取り組んでいる。

 本のカバーの裏には本書を、こう紹介している。「敗戦の日に戦争責任をとる形で朝日新聞社を去った著者は、いま、その選択を悔いる。残って、『本当の戦争』を伝え残すべきだった、と。週間新聞『たいまつ』休刊から30年、その深い思索と熱い主張の到達点とは。従軍記者体験を踏まえ、憲法九条のもう一つの意味、社会主義挫折への見方、そして未来を照らす希望の在りかを語る。」
 ジャーナリストとして生きてきた彼は、今のジャーナリズムにこう断罪を下す。「ジャーナリズムとは何か。ジャーナリズムの『ジャーナル』とは、日記とか航海日誌とか商人の当座帳とか、毎日起こることを書くことです。それをずっと続けていくのが新聞。それは何のためかというと、理由は簡単です。いいことは増やす、悪いことは二度と起こらないようにする。ただ、それだけのことなんです。ところが、最近のジャーナリズムはそこが抜けてしまっている。新聞も『商品』になってしまいました。だからニュースではなくトッピクスになっている。いまのジャーナリズムは、いわばトピックスのつまみ食いにすぎない。」 実際、新聞・テレビ・ラジオのニュースを聞いても、問題の本質に迫った解説は、なかなか見当たらない。
 憲法九条についてもその二重性を指摘しているところが面白い。「憲法九条とは何か。あれは、いわば軍国日本に対する”死刑判決”です。軍備はもたせない、陸海空軍はすべてだめ、交戦権も永久に放棄させる。これは、あの乱暴な戦争をやった日本が、もう二度と国際社会で戦争はやれなくなった、ということにほかならない。言い換えれば、国家ではないと言う宣告です。交戦権をもつのが近代国家だ、ともいえるわけですから。要するに、日本は新憲法で完全に交戦権を奪われた。憲法九条は、軍国日本に対する死刑判決であり、ある意味において、国家としてこれほど屈辱的なことはない。そう考えなければいけないわけです。ところが、一方で、人類が生き続けていくためには、戦争を放棄したあの九条の道を選択する以外にないといえる。だから、憲法九条を良いほうに考えると、”人類の道しるべ”だということもできる。人類の輝かしい平和への道しるべであり、同時に日本自身の軍国主義への死刑判決でもある。その両面を持つのが憲法九条なのです。
 むのたけじの本を読んだのは、40年も前である。「たいまつ十六年」(1964年 理論社)「雪と足と」(1964年 文芸春秋新社)「踏まれ石の返書」(1965年 文芸春秋新社)「ボロを旗として」(1966年 番町書房)「日本の教師に訴える」(1967年 明治図書)「詞集たいまつ」(1967年 三省堂新書)「1968年 歩み出すための素材」(1968年 三省堂新書 岡村昭彦との共著)が、本棚に残されている。
 従軍記者として戦争体験をし、戦後は在野のジャーナリストとして活躍してきたむのを再登場させたのは、憲法九条をめぐる情勢に一滴を投じることになっていると思う。
 「たいまつ十六年」の冒頭には、魯迅のこういう言葉が記されている。「もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」