伝説の日中文化サロン  上海・内山書店

伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)

伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)

 本のカバーの紹介は、次の通りである。『大正から昭和初期の上海で、文化サロン的な役割を果たした伝説の書肆「内山書店」に焦点を当て、対華21か条要求から日中戦争へと続く、日中両国の関係が最悪だった時代のなかで育まれた、両国文化人の交流を描く』
 本の主人公は内山完造。本書の年譜によると内山は、1885年(明治18年)に岡山県後月郡芳井村(井原市か)の生まれ。いろんな職業を経た後、参天堂の社員となり上海に赴任。夫人が、1917年(大正6年)に内山書店を開いた。1930年(昭和4年)に仕事をやめて、書店の経営に専念している。上海は北京と並んで当時からも文化の中心地であった。内山書店には多くの日中の文化人が集まった。内山夫婦の分け隔てのない心遣いがそうさせた。そればかりでなく内山は、上海事変など、日中関係が悪化し日本と蒋介石の国民党政府からにらまれた多くの中国人を援助した。その代表的な人物が魯迅である。
 魯迅と言うと「藤野先生」が有名である。この小説は日本の教科書でも紹介されている。魯迅が今の東北大学で医学を学んだ時に、大変影響を受けた人物で、魯迅は藤野先生の写真を書斎の机にいつまでも飾っていた。魯迅は「藤野先生」の最後にこう書いている。「夜ごと、仕事に倦んで怠けたくなるとき、仰いで灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語りだしそうな顔を眺めやると、たちまちにまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び『正人君子』の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。」(魯迅選集第巻 岩波書店
 藤野巖九郎の記念館が、福井県あわら市にあり、何年か前に息子が在学中の金沢に行く途中に立ち寄った。魯迅と藤野の交流が展示されていた。ついでに福井市にある橘曙覧(幕末の歌人)の記念館にも行った。どちらもこじんまりとしてはいるが、満足のいくものであった。
 魯迅の夫人である許広平は「魯迅回想録」
魯迅回想録 (1968年) (筑摩叢書)

魯迅回想録 (1968年) (筑摩叢書)

のなかで「内山完造さん」という一項を設けている。そのなかで許はこう書いている。「私たちが内山さんのことを理解したいわれは、雑談の間に、内山さんが次のようなことばで、かれの態度を示したことにあった。『友人を敵に売り渡さない人間は、日本人のなかにだっていますよ』と。これこそ明らかに魯迅に向って、ご安心なさい、わたしは絶対にあなたの安全を保証してあげますよ、という意思を示したものにほかならない。わたしたちは綿密に考察し、内山の全家族が店員も含めて、確かに魯迅にそうした好意をもっていることを知った。」
 魯迅の息子の周海嬰は「わが父魯迅
わが父 魯迅

わが父 魯迅

のなかで「裏切らない親友」として、こう書いている。「『不売血』 父が内山先生を評して言った言葉である。友人を決して裏切らないという意味だ(報酬のために友人などを密告することを売血と言った)。あの時代の日本人として、それは実に尊い事であった。」
 1941年12月15日(太平洋戦争が始まった月)に許広平は日本軍憲兵に逮捕された。75日間の拘留の間に電気拷問などの虐待を受けた。詳細は「暗い夜の記録」に詳しい。
暗い夜の記録 (1955年) (岩波新書)

暗い夜の記録 (1955年) (岩波新書)

 その彼女の救出に尽力したのが内山である。戦後の日中間の国交回復についても、こういう人たちの活動があったからこそ実現できたのである。1959年9月19日、内山は中国政府の招きで病気療養のため北京に渡った。しかし残念なことに、翌日亡くなる。内山夫婦は上海の霊場公園としても知られた万国公墓で、宋慶齢孫文夫人)の墓の隣に眠っている。墓碑には「以書肆為梁期文化乃交流生為中華友没作華中土吁嗟呼如此夫婦」(書肆を以て津梁〔橋渡し〕となし、文化の交流を期す。生きては中華の友となり、没して華中の土となる。ああ、此く如き夫婦)
 内山書店は、今でも東京神田のすずらん通りにある。
「内山完造伝」(小澤正元 番町書房 1972年3月 800円)という本もある。内山の著作で読んだものは「そんへえ・おおへえ  上海生活35年」(岩波新書 1949年9月 90円) 内山によると、そんへえは上海のおおへえは下海の上海読みだとのことである。 「平均有銭  中国の今昔」(同文館 1955年5月 150円) この二冊は古書店で購入したもの。