秋瑾

秋瑾 火焔の女(ひと)

秋瑾 火焔の女(ひと)

 秋瑾(しゅうきん)は、中国の清末の女性革命家。1875年生(明治8年)1907年6月亡(明治40年) 「魯迅も秋瑾も、同じ紹興の出身である。紹興は、水の都として栄え、その豊かな水で造られたのが老酒の紹興酒である。臥薪嘗胆の故事で知名度が高い土地柄なのだ。」と本書では紹介している。かなり裕福な家の出で、結婚先はもっと豊かであった。今で言えば上流階級出身なのだ。その彼女が、清朝の不甲斐なさに怒り、その根底の一つに女性の地位の低さに原因があるとして、女性解放に立ち上がる。清朝を打倒して、新たな漢民族中心の国家を創らなければ、欧米・日本からの侵略に対抗できないと考えた。短い33年の生涯を、資料を丹念に読んで書き上げている。今までも、何人かが秋瑾について書いているが、私が以前読んだのは、武田泰淳の「秋風秋雨人を愁殺す」で、もう40年も前になる。  武田泰淳はこの本のなかで、周作人(魯迅の弟)の「魯迅の故家」の一文を引用している。「秋瑾は魯迅と同じころ日本に留学していた。清国留学生取締規則が発表された後、留学生はこぞって反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年配の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味ではないことを知っていたから、賛成しない人が多かった。それでこの人たちは、留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳もそのなかにはいっていた。魯迅は彼女が一振りの短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している。」 私が購入したのは1968年12月発行のもの。
魯迅の故家 (1955年)

魯迅の故家 (1955年)

 魯迅は後に、秋瑾をモデルに「薬」「萢愛農」を書いている。
 秋瑾の過激な一面が見受けられる一文である。
 「秋瑾 火焔の女」のエピローグ「1911年、辛亥革命を成功に導いた武昌蜂起には、秋瑾が組織した革命家たちが陣頭指揮をしていた。 西湖のほとりに、徐自華姉妹によって秋瑾の顕彰碑が建てられた。碑文字は、墓前祭にやってきた孫文の揮毫により、『鑑湖巾幗秋瑾女士』と彫られた。」
 ところで、魯迅と内山完造のことを先日書いたが、記念館で購入したのが芦原町(当時)の教育委員会が小中学生用に作成した本「魯迅と藤野厳九郎」であった。1964年4月に福井市足羽山に二人の友情を記念して「惜別」の碑が建てられた。惜別という言葉は、藤野が魯迅に書き送った文字である。この文字は二人をモデルにした太宰治の小説にも用いられている。もっともこの小説は戦時中に書かれたもので、内容的に芳しいものではない。竹内好も痛烈に批判している。
 碑文には貴司山治(自著 孺子の牛 59貴司山治魯迅 61貴司山治追記参照)の文章が彫られている。
 「明治37年周樹人仙台に学ぶ 教授藤野厳九郎懇切に指導すること2年 周氏志をかえて仙台を去る 先生深く周氏を惜しみ『惜別』の2字を署して小照を贈る 周氏は後の中国文豪魯迅先生なり 魯迅その小照を壁間に掲げて己を督励し 小品『藤野先生』を草して旧師を偲んで 曰く『先生は世に無名の人 己には極めて偉大の人』と 大正5年藤野先生故郷福井に隠れ医を営んで農夫の友となり 昭和20年8月11日72年の生涯を了る 有志相謀り上海市魯迅記念館所蔵藤野先生小照背面の文字を採り 仙台医学専門学校時代の先生小照と共に刻し茲に惜別の碑を建て 両先生不滅の結縁を記念す 因に台石『藤野厳九郎碑』の6字は魯迅夫人許広平女士に嘱してこれを誌す  1964年4月 藤野先生記念会」  (小照とは写真のこと)
 この碑文については「魯迅・藤野先生・仙台」 半沢正二郎著 1966年11月 日中出版 500円 から引用した。
魯迅・藤野先生・仙台 (1966年)

魯迅・藤野先生・仙台 (1966年)