甕の中の兵隊

 前回、戦争に関する本を紹介したので、今回もその続きで。

甕の中の兵隊

甕の中の兵隊

 著者(1924年8月〜2000年12月)は、毎日新聞記者を経て著述業。この小説は「文化評論」に1991年6月号から11月号までに「東京第一陸軍病院外科病棟」と題して連載され、1992年1月に新日本出版社から出版された。東京第一陸軍病院は、今の国立国際医療センターの前身である。
 主人公の深津新一郎が負傷して東京第一陸軍病院に入院した時に、彼は同室に入院中の松岡伍長から、表題の兵士の話を聞く。「それは両腕を肩の付け根から、両足も大腿の付け根から切り取られたダルマみたいになり担ぎ込まれた兵隊だ。人間は両腕両足がないと自分で立つことも身動きすることもできない。それで、衛生兵が甕にいれ二人で棒をもってもっこを担ぐように吊るし東一へ運んできた兵隊だ。」
 病院のどこか人目につかないところに隔離されてあった、軍事機密になっている。彼のような兵隊の存在が明らかになると、国民の戦意昂揚に水をかけることになるとの判断から行われた。深津は入院中に彼を見つけ、「どこの町か村から兵隊にいき、どの戦場のどんな状況の下でこんな体になったのか、その時から今日までどんなことを考えながら生きてきたのかを誰かが記憶にとどめておいてやらねば人間としての彼は痕跡をとどめず終わってしまうのではないか。少なくともまだ外界との繋がりをもつ俺が耳にとめ場合によっては記録にとどめておくべきではないか。場合によっては軍機保護法をおかす危険をのりこえても幸か不幸か文章を綴ることのできる俺がそれを文字にし何か刻んでおいてやるべきではないか」と考える。
 しかし、病院を退院せざるを得なくなり、その調査を病院で知り合った頼近という看護婦に依頼する。しかし、その頼近もフィリピンのケソンにある南方第十二陸軍病院に配転される。彼女はそこで大変なめに会う。米軍の攻撃により軍隊とともに病院も敗走する。そのなかで戦傷兵の遺棄・薬殺、餓死、発狂などを体験するが、かろうじて日本に帰還することができたが、戦場での体験はとても他人に語ることはできないものであった。
 深津も甕の仲の兵隊のことを忘れていたわけではないが、仕事の忙しさから手につかずにいた。そんな彼の前に現れたのが、死んだ頼近看護婦の孫の泉由香里でであった。彼女とその同級生は、祖母の手紙の中から深津が送ったものを発見し、甕の中の兵隊の存在を知る。若い二人の調査行動に深津も触発されて、彼の知る事を話しまた調査を始める。
 調査の中で、元軍医や衛生兵と面談し、甕の中の兵隊の全容を知る事ができる。中国の大原から西へ離石の近くの農村を軍隊が攻撃する。中国正規軍を探して「中隊長が”床下か地下の穴くらにチャンコロが隠れているはずだ、徹底的に捜索しろ、拒む者や敵意を示す者、怪しい者は女子供でも容赦するな、やれ”との命令を下しました。やれとは殺せということです。大同、大原はもとより娘子関で戦友をつぎつぎやられてきた兵隊たちはそれからもう凄惨な殺戮です。薬莢があったということはつい今しがたまで中国軍が押し寄せる日本軍になにがしかの抵抗をしたことを意味しているのでしょうが武器と名の付く物はなにひとつ持たない集落の逃げそびれた農民七十数名すべてを刺したり突いたり皆殺しにしたのでした。哀願しようが私たちは無関係だと弁解しようがおかまいなし文字どおり血の海です。」
 この集落に敵の備えとして残っていた兵隊たちは大きな甕にある酒を発見して酔いつぶれる。そこへ、難を免れた農民たちが襲いかかり、襲撃され一人を残し殺害された。その一人が青龍刀で両手両足を切り落とされた。「こうして両手両足を生きたまま切り落とすのは中国においては極めて怨みの深い相手に対してやる報復の手段」であった。日本軍に救出された兵士は飲み干した甕に入れられて運ばれ、命を辛くもとり止めることができ、東京第一陸軍病院まで移送される。
 著者は最後にこう記している。「罪もない中国農民を虐殺しまくったことはたしかに人間としてしてはならぬ行為であった。そのことを言われたら両手両足を切り落とされた兵隊に返す言葉はないだろう。しかし、中隊長をふくめ人間をそこまで狂わせる戦争、それをこえ或る意図をもって兵隊をそこまで狂わせたこの国の軍隊、皇軍を自称し侵略戦を聖戦としそれもこれも是としたこの国の天皇を最高統率者とした軍隊とは何であったのか。」
 田母神俊雄航空幕僚長の論文が大きな問題になっている。未だに戦前の軍隊の思想が生きていて再生産されている。
 本の中で若い女子大生を登場させているが、戦争を語り継ぐ事の重要性を千田は示している。