病が語る日本史

病が語る日本史 (講談社学術文庫)

病が語る日本史 (講談社学術文庫)

 ブックカバーには、「古来、日本人はいかに病気と闘ってきたか。人骨や糞石には古代の人々が病んだ痕が遺されている。結核・痘瘡・マラリヤなどの蔓延に戦いた平安時代の人々は、それを怨霊や物の怪の祟りと考え、その調伏を祈った。贅沢病といえる糖尿病で苦しんだ道長、胃ガンで悶え死にした信玄や家康。歴史上の人物の死因など盛り沢山の逸話を交える病気の文化史。」と紹介している。
 太平洋戦争までは、感染病が死因の多くを占めていた。医療が未発達の時に、宗教・迷信が大きな役割を果たしている。死の病から少しでも逃れようと、苦労している有様が多くの文献の紹介で示されている。
 マラリヤ・糖尿病・ハンセン病寄生虫・ガン・眼病・インフルエンザ・脚気コレラ天然痘・梅毒・職業病・赤痢結核・ペストなどが取上げられている。感染病は人の往来の拡大で、中国・朝鮮・ロシヤ・ヨーロッパなどから持ち込まれて、多数の人々が死んでいる。その対策は国家の安全にかかわるものとして、大変な努力を当時の人々が行ってきたことが理解される。
 安政5年6月(1858年)に長崎で発生したコレラは当時人口6万人の都市長崎で767名の死者を出した。それが江戸まで蔓延して人口百万人の江戸では約3万人の死者が出たという。
 はしか(麻疹)でも多くの命が奪われている。文久2年(1862年)の流行では「江戸洛中麻疹疫病死亡人調書」によると、江戸だけで75,981人が死んだという。実際はもっと多く、江戸の各寺が報告した麻疹で死んだ人の墓の数は239,832であったという。今ではとても想像できない数である。いかに病気から逃れて生きていくか、困難な時代であった。
 天然痘で死ぬ事は今ではめったにない。昔、天然痘は発病してから14日から15日の経過を経て全快するが、その間に死亡する事が多い、怖い病気であった。また、治ったにしても、顔には痘痕(あばた)が残り、生まれもつかぬひどい痘痕面になる事もあった。NHKの大河ドラマ篤姫」に出てくる徳川13代将軍の夫の家定も天然痘にかっかって、痘痕面だったという。とてもドラマに出てくるような美男子ではなかった。
 「あばたもえくぼ」(恋する者の目には、相手のあばたでもえくぼのように見える。ひいき目で見れば、どんな欠点でも長所に見える。 大辞泉 小学館)という言葉も、死語になってしまった。