上海

[rakuten:book:10944163:detail] 以前紹介した、丸山昇の「上海物語」(講談社学術文庫)のなかの「戦争のなかの日常 少女の目で見た上海」で林京子の小説「ミッシェルの口紅」について書かれていた。そこで、彼女の本を読むことにした。残念ながらもうあまり文庫化されていない。古書店で、上記の本と「上海」を購入した。
 林京子は1930年に長崎で生まれた。野坂昭如と同い年である。野坂は神戸で空襲に遭い、林は長崎で被爆した。林は生まれた年の翌年に父の仕事の関係で上海に移住した。そして上海での戦争が激しくなるなかで1945年に長崎に一時帰国したのだが、帰ってきたところで被爆したのである。武田泰淳堀田善衛は年は大分上だが、同じ時期に上海で暮らしていた。武田には自伝的小説「[上海の蛍」があり、堀田には「上海にて」がある。

上海の螢 (1976年)

上海の螢 (1976年)

上海にて (集英社文庫)

上海にて (集英社文庫)

 私が読んだ「上海にて」は勁草書房の中国新書中の一冊で1965年出版。最初は1959年に筑摩書房から出ていた。
 人生で一番感受性の強い時期に林は上海で暮らしていた。それから36年ぶり(1981年8月9日から13日)に、上海・蘇州の団体旅行に参加してた旅行記が「上海」である。日中国交回復がされてまだ間もない時期である。嘗て住んだところへの思いが伝わってくると同時に、現在(1981年)の日本人と中国人との間の微妙な距離が感じられる。
 旅行中に林はある発見をする。上海にある魯迅の旧居を訪ねた時に、「どんないきさつからか、わたしの家には、魯迅の写真があった。父が、中国人の知人からもらった写真のようである。写真は、上海の家の箪笥の抽出しに仕舞ってあった。 中略 窓辺に立って、それらのことを漠然と考えているうちに、私は、コレラの予防接種から肋膜炎と診断された、須藤先生のことを思い出してはっとした。魯迅集の解説書には、S医師のことを、須藤五百三、と書いてあった。軍医上がりで、上海の開業医ともある。何気なく読み捨てていたが、須藤五百三なるS医師は、私たち姉妹を診てくれていた、須藤先生ではあるまいか。 中略 S医師と魯迅と。須藤先生と魯迅と。父と魯迅の写真と。そして魯迅の写真を現在も持っている私と。須藤先生と。何処にも、何の意味もみつけられない。だが、つながりのないつながりに、意味があるように思えた。父も死に魯迅も死に、死亡したであろう須藤先生と、三人の故人の無意味なひっかかりの事実が、魯迅の其の時の生を証明し、S医師と須藤先生が存命だった時を証明し、父が私たち家族の長であった時を証明していた。それらが1936年前後の上海の、中国人や日本人たち一般の日常であり、その時代の上海の、時の証明であった。そのことに私は感動した。」
 虹口公園にある魯迅の墓にも行っている。魯迅の墓は、最初の万国公墓から虹口公園に移されていた。其の時の感想は「白日の陽のなかの魯迅の顔は、はれやかでありすぎるように思えた。」
 堀田善衛は「上海にて」の「魯迅の墓」の項でこう書いている。「1945年の6月、私は武田泰淳といっしょだったか、菊池祖氏といっしょだったか、ぶざまなことに忘れてしまったが、上海西郊の万国公墓へ魯迅の墓を見に行った。それは、小さな、なんと言うこともない墓であった。一面、ぼうぼうの草に埋もれていた。花もなんにもなかった。確かその日は日曜日で、墓地の番人がいなくて、私たちは塀の破れ目から身を曲げて押し入った。魯迅の墓のそばには、宋子文宋美齢やらの、例の財閥宋一家のじつにばかでかい墓があった。魯迅の墓は、まことにつつましやかなものであった。十字架こそないけれども、横浜あたりの外国人墓地にあるような、土葬をした、その頭の方に、低いついたてのような具合に、白い石が立っている。それだけのものだった。草がぼうぼうに生えていた。『葬』という字は、草の間に死をはふり出す、ということだと聞いたことがあったが、それはまさにそのようであった。そこに立って、私はやはりぎょっとさせられた。魯迅の目が、あの目だけが、あの視線でもって私の心の底を見ていた、と私は思った。」最後にこうも書いている。「ともあれ、私は魯迅の巨大な新墓を見に行くことをしなかった。」