ミッシェルの口紅

 「上海」に引き続き「ミッシェルの口紅」を読んだ。前著は戦後訪れた上海の様子を少女時代の暮らしと重ね合わせて書いたものであるが、今回のは、当時の生活を描き出している。1979年1月から隔月で雑誌「海」に短編6編を連載している。それに79年12月に「婦人公論」に掲載した短編をまとめたものが、表題の本である。「海」に掲載されたものは上海時代の、「婦人公論」に掲載された「映写幕」は、帰国後長崎で被爆して母の故郷の諫早での出来事を書いている。上海での1937年から1943年ごろの生活風景である。戦争の影響が色濃く反映されている。
 「老太婆の路地」に出てくる「明静」という少女は、2〜3歳の頃、担い籠に担がれて売られてきた子どもで、作者と同じ年頃のせいかよく遊んでいる。明静のことをこう書いている。「幼い明静は、天秤棒の前の竹篭にぼろ布を敷いて座らされていた。竹篭に入れられた明静は、砂糖きびをしゃぶって、おとなしく座っている。色が白く、瞳が黒い露の玉のように光る、美しい子供だったという。それを老太婆が、値切りに値切って、ドンペイ二枚で買った。リャンコヤンである。ドンペイは、直径が三糎ほどの大型銅貨で、銅貨二枚がリャンコヤン、である。老太婆は厭味を言う時にわざと、リャンコーヤン、と語尾を伸ばして使う。」
 彼女の身近なところに、日本の統治に反対する人々がいて、発砲・破壊工作も行われている。遠足や修学旅行に行く時も日本兵の護衛を伴って実施されている。1937年8月の第二次上海事変で戦場になったところへ遠足に行った時のことが書かれたのが「耕地」である。骸骨が一杯出てくる。骸骨をほうり投げた「「落下地点の草むらを、靴先で探っていた男の子が、ほら、といって球状の物を探し出し、捧げてみせた。それは人間の骸骨だった。はちろぐんのだ、と群れのなかの男の子が叫んだ。遊んでいた男のたちが集まってきて、はちろぐんのだ、はちろぐんのだ、と口々に囃す。野ざらしになった白骨が、八路軍の頭骸骨か日本兵の頭蓋骨か、判るはずがない。しかし子供たちは決めてかかって、はちろぐんのだ、と叫ぶ。空高く投げた兵隊も、日本兵の頭蓋骨とは考えていないようだった。」
 当時の中国は国共合作が行われ、日本の侵略に対抗するために国民党と中国共産党が一緒になって闘っていた。「八路軍」は中国共産党に指導された軍隊で、果敢に日本軍と戦ったので、日本軍からも恐れられていた。この頃について「未来をひらく歴史」はこう記述している。
未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史

未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史

 「1937年7月7日夜、日本軍は北京郊外で盧溝橋事件を起こしました。日本はこれを中国軍が不法に射撃をしたからだという口実をつけて、一挙に華北一帯を占領しようと軍隊を送りこみました。上海では、海軍が中心になって、8月13日に戦争を起こし(第二次上海事変。松滬抗戦 しょうこ )、翌14日には中国の首都南京を空爆しました。日本の近衛内閣は上海にも大軍を送りこみ、3ヶ月にわたる激戦ののちに上海を占領しました。日本の軍部と政府は、首都南京を占領すれば中国は日本に屈服し、日本の支配を認めるようになると考えて、総勢約20万人の日本軍を南京占領のために送りこみ、1937年12月13日には首都南京を占領しました。この時、世界から非難された南京大虐殺事件を引き起こしました。」
 日本人から見た「ミッシェルの口紅」であるが、中国から見た当時の上海はどうであったのか。
 
 3月29日に徳島勤労者山岳連盟主催の「第26回やまなみウォークラリー」に連合いと参加した。詳細は「マサ子通信」参照。低山とはいえ30キロの山道を歩くのは大変であったが、後で行われた「反省会」ではおいしいお酒を頂いて、楽しい1日であった。