ついでに芥川龍之介

 上海に関連した本を読んだので、芥川龍之介も読むことにした。

上海游記・江南游記 (講談社文芸文庫)

上海游記・江南游記 (講談社文芸文庫)

 戦前・戦中・戦後から現在に至るまで、上海は大都市で、多くの日本人が渡っている。芥川龍之介もその一人で、毎日新聞の記者として紀行文を書いている。1921年(大正10年)4月末に(当時29歳)上海に到着した。その直後に肋膜炎を患い、3週間ほど里見病院に入院している。上海を経て、江南・長江・盧山・武漢洞庭湖・長沙・北京・朝鮮を経て7月末に帰国している。
 芥川は1892年3月に現在の東京都中央区明石町で生まれた(父新原敏三、母ふくの長男)。母親が精神を病んでいたので、母親の兄(芥川道章)に引き取られている。その家が、なかなかの粋人で、江戸伝来の文人的、通人的影響を大きく受けた。(本書の年譜による)早くから文才があり、漢文も大変得意であったようだ。
 上海游記にも漢詩・中国古典小説の一節がたくさん出てくる。1921年の中国といえば、1914年に第一次世界大戦が始まり、1915年に日本は中国に対して対華21か条の要求を突きつけ、本格的に中国での利権を獲得しようと始めた時期である。
 21か条の主な内容は、
 ①日本はドイツの山東における権益を引き継ぐ。 
 ②日本は南満州(現在の中国東北地方南部)および東部内蒙古を長期間租借し、商工業を経営し、鉱山を採掘し、鉄道を敷設する権益を有する。 
 ③漢冶萍(かんやひょう)鉄鋼会社の日中共同経営、付近の鉱山は会社以外の採掘を認めない。
 ④中国政府は中国沿岸の港湾・島嶼を他国に租借させないことを承認する。
 ⑤中国政府は日本人を政治、軍事、財政などの顧問に招聘する。警察を日中合同とする。日中合弁の兵器工場を創設する。武昌−南昌鉄道やその他の鉄道敷設権を日本に与える。日本は福建省における鉱山採掘、港湾建設、造船所、鉄道敷設の優先権を有する。中国における日本の布教権を認める。
といったもので、中国から見たら屈辱的な内容である。布教といえば神道ということだろう。
 当時、日本には中国からの留学生が1万人ほどいたというが、この日本の要求に憤慨して帰国をする留学生が続出した。魯迅もこの時、日本に留学している。
 そんな、日中関係の時期の芥川の訪問であった。
近代日本文学における中国像 (1975年) (有斐閣選書)

近代日本文学における中国像 (1975年) (有斐閣選書)

 上記の本で、芥川に関し紅野敏郎は以下のように評している。「大正文士の典型である芥川龍之介佐藤春夫も中国の伝統や風土にきわめて強い関心を寄せた。中国文学への理解が、彼らみずからの文学のよき土壌になっている。にもかかわらず、風物、風土をみる文人の眼は鋭かったが、そこに息づく現代中国の人々の心情を十分にすくいあげた、歴史的考察の書にはたかまらず、一瞥の書としての興味に終始しているところがある。」
 魯迅は、日本の小説もいくつか翻訳・紹介している。1923年には弟の周作人との共訳で「現代日本小説集」を商務印書館から出版している。芥川の「鼻」「羅生門」も、魯迅の訳で掲載されている。
 「鼻」は1921年5月に中国の新聞「晨報」に掲載され、訳者附記が書かれているので紹介しよう(魯迅全集第12巻 学習j研究社 1985年8月)
 「芥川氏は日本の新興文壇の中で評判の作家である。田中純は彼を評して『芥川君の作品には、作者の性格の全体を以って、材料を支配し切って居る様子が見える。此の事実は、此の作品が常に完成して居ると云ふ感じを、吾々に起させる』と言っている。彼の作品にとられている主題で最も多いのは希望が達せられた後の不安か、あるいはいままさに不安におののいているときの心情であり、この意味で本篇はその格好の見本といえよう。芥川氏に不満なのは、およそ次の二つの理由からである。一つは旧い材料を多用し、ときには物語の翻訳に近いこと。一つは手慣れた感じがあまりにもありすぎて、読者がなかなかおもしろいとは思わないことである。この意味でも本篇は格好の見本といえよう。内道場供奉禅智和尚の長い鼻の話は、日本の古い伝説で、作者はそれに新しい装いを施してみせたにすぎない。作中の滑稽味は才気が溢れすぎているところはあるが、中国のいわゆる滑稽小説とくらべてみて、実に上品である。だから、私はまずこの一篇を紹介する。」