中国語教室 李白2

 昨晩は、例によって中国語教室。宿題の「望盧山瀑布」を皆で朗読。皆さん、前回より発音がしっかりしてきています。先生の息子さんは小学校2年生ながらやはり立派な発音です。子どもが、綺麗な発音で読むと、こちらも触発されます。宿題のほか、「静夜思」を習いました。私が持参したCD「聴く李白三十首」(日中出版社 1,580円)の中に静夜思も入っていたので、ネイティブの発音で勉強しました。詩を読むときは、四声をきちんとして発音し、詩の意味を理解しながら抑揚をつけてよむと、感じが出てきます。
 次回は、「哭晁卿衡」です。この詩は中国ではあまり有名ではないようですが、晁卿衡は遣唐使だった阿倍仲麻呂の中国名です。「聴く李白三十首」によると、「晁卿衡=晁衡(朝衡)は、阿倍仲麻呂(698〜770)の中国名。卿は敬称、あるいは官名「衛尉卿」の略。717年遣唐使とともに入唐、留学生として学んだ後、官職を歴任した。753年帰国しようとした船が難破し、現在のベトナムに漂着。長安に戻り、再び朝廷に仕え、かの地で没した。」
 前回と同じく松浦友久先生の「李白 詩と心象」で見てみる。
  哭晁卿衡
 日本晁卿衡辭帝都
 征帆一片遶蓬壺
 明月不歸沈碧海
 白雲愁色滿蒼梧

 日本の晁卿 帝都を辞し
 征帆一片 蓬壺(ほうこ)を遶(めぐ)る
 明月は帰らず碧海(へきかい)に沈み
 白雲愁色 蒼梧に満つ

 阿倍仲麻呂(698〜770)の死を傷んだ作品である。開元5年(717)遣唐留学生として長安に渡った仲麻呂は、太学卒業後、科挙にも合格し、玄宗皇帝の信任をえて、順調な役人生活を送っていた。李白や王維、儲光羲(ちょこうぎ)など、当時の著名な詩人とも親しかったらしい。
 天宝12年(753)、かれは、遣唐使藤原清河の一行とともに、蘇州から帰国の船に乗った。10年に近い留学生活であった。『天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも』という名高い和歌は、この時に作られたといわれる。
 しかし、船は途中で難破し、仲麻呂遭難の知らせは、朝廷や、各地の友人に伝えられた。李白が「晁卿 衡を哭す」を作ったのは、この時である。「晁衡」とは、仲麻呂の中国における姓名。朝衡と書くこともある。「卿」は、衛尉寺卿(えいいじけい)の略称。朝廷の儀式の器具類を扱う役目であり、かれの官職であった。姓と名の中間に官職名を入れるのは、当時の中国式の表記である。
 わが友、日本の晁卿衡は、帝都長安に別れをつげ、一片の去り行く帆かげは、はるか蓬壺の島を遶って、東に進んだ。
 しかし、明月のように輝かしかった君は、むなしく碧(あお)い海の底に沈んでしまった。ゆるやかに流れる白雲、深い悲しみの色、それだけが、蒼梧の空と海に満ちている。
 (中略)
 碧海に沈んだと悲しまれた仲麻呂は、安南(ベトナム北部)に漂着して、生命は無事であった。ふたたび長安にもどり、玄宗、粛宗、代宗の三代に仕え、帰国の志を果たさないままに死んだ。73歳であった。