武漢作戦

 前回、佐藤卓己の「言論統制」を取上げた。本来は、もう少し長い文章だったが、保存に失敗して再度書き込むのが面倒だったので、中途半端なもののなっている。
 「言論統制」の中で、石川達三の「武漢作戦」に触れられている。私が読んだのは文春文庫1976年1月25日発行のものである。10数年前に古書店で買ったものを積読していたものである。「言論統制」で触れられていたので読んでみる気になった。
 「言論統制」ではこう書かれている。
 「石川達三にとって『鈴木=佐々木少佐』問題は、自らの戦争協力問題と深く関わっている。実際、石川が鈴木少佐の名前を知るのは、『経験的小説論』でいう『昭和18年』ではない。その5年前、『昭和13年』のはずである。それは石川が『生きている兵隊』事件で『被告』となった年である。1937年12月の南京攻略戦に中央公論社特派員として従軍した石川は、小説『生きている兵隊』を、中央公論1938年3月号に掲載した。凄惨な戦場の情景をリアルに描いたこの作品は内務省から新聞紙法違反により頒布禁止処分を受けた。(中略 石川はこの件で禁錮4ヶ月 執行猶予3年の有罪判決を受けている)石川は国民に非常時を認識させるための必要性を主張している。その意味で、『生きている兵隊』はおよそ反戦的な作品ではない。敗戦直後に復刊された序文でも石川は繰り返している。
『ただ私としては、あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に驕った銃後の人々に大きな反省を求めようといふつもりであったが、このやうな私の意図は葬られた。』
 つづけて佐藤はこう書いている。
 「判決から2週間後、石川は『名誉挽回』を期して再び中央公論社特派員となり武漢攻略戦に赴いた。その成果が『中央公論』1939年1月号に掲載された『武漢作戦』である。前作との違いを石川は附記で次のように書いている。
 『前回は戦場にある個人を研究しようとして筆禍に問われた。今回はなるべく個人を避けて全般の動きを見ようとした。』
 なるほど、読んでいて全く面白くない。戦争の状況・日程が淡々と記述されているだけである。少し、従軍している兵士の感情・言葉などが書かれているが、平板なものである。作家が自己規制しないと文章も発表することが出来ない、軍部の思惑通り書かないといけなかった状況がよくわかるのである。林扶美子の「戦線」と同じように、作家の顔が見えないのである。1935年に「蒼氓」で第1回芥川賞を受賞した文章の面影もないのである。
 石川達三の小説を読んだのは高校生の時代だったから、45年も前になるか。
 読んだ記憶に残っているのは「蒼氓」「泥にまみれて」「人間の壁」「四十八歳の抵抗」「神坂四郎の犯罪」「日陰の村」「バラと荊の細道」「骨肉の論理」などである。今では、石川の作品で文庫になっているのは数点しかない。
 「蒼氓」はブラジルへの移民をえがいている。明治の初めから、移民は始まっていて、南米・北米・オーストラリア。ハワイなど世界各地に、全国から移民していった。当時、労働力過剰であった日本政府が始めたものだ。過酷な労働の中で死んでいったものや、成功を収めたものなど、犠牲なしでは生きていけなかった。「棄民政策」とも言われている移民は、今日でも多くの問題を抱えている。南米などから日系人が安い労働力として、日本に来ている。経済が悪くなれば、企業はそれらの人から解雇する。大きな社会問題になっている。国と企業が一体となった「第二の棄民政策」と言ってもよいのではないか。