白楽天

 昨日は、「やまなみウォークラリー」に参加して30キロを歩いてきた。さすがに疲れたが晩のお酒はおいしかったですね。正月に甥からもらった魔王も飲みました。詳細は、マサ子通信をごらんください。

白楽天――官と隠のはざまで (岩波新書)

白楽天――官と隠のはざまで (岩波新書)

 漢文は、高校時代に習ったが(詳細は拙著「孺子の牛」)その時に白楽天の詩もあったのだろう。
 白楽天を習ったのは大学時代。国文学専修だったので漢文の授業もあった。先生は堤留吉という人で、当時は60歳をいくつかすぎていただろう。若い学生たちに楽しく教えてもらった記憶がある。堤留吉の名前で検索すると「雲烟過眼録」というブログに堤先生のエピソードがあった。松浦友久著作選Ⅳには「個性とその対象 堤留吉先生古希記念によせて」という一文がある。今、当時使ったテキスト「白楽天の文学理論とその主張 資料編」(敬文社)を見ると、講義を受けた詩がわかった。テキストに書き込みがあったのだ。司馬遷屈原列伝のほかには白楽天の「新製布裘」「売炭翁」「観刈麥」「繚綾」「上陽白髪人」「凶宅」「長恨歌」の講義を受けたことがわかった。特に長恨歌は何回にも分けて、詳しく解説してくれた。先生の講義を理解するために、先生の「白楽天 生活と文学」(敬文社 1957年刊 1959年再刊)を古書店で買って勉強した。長恨歌では、「漢皇」と白楽天が書いたのは、唐時代の玄宗皇帝を敢えて言うのを遠慮しての表現だと教わった。「中国詩人選集13 白居易下」(岩波書店)で高木正一も同様な解説をしているし、「白居易詩選」(顧肇倉 周汝昌選註 作家出版社 中国 1962年刊)でも同様であった。
 しかし、紹介した「白楽天」(岩波新書 川合康三)では、「玄宗のことを語りながら玄宗と記さない理由について、皇帝の情事を語る内容ゆえに唐の皇帝に対してはばかりがあったのだとする解釈が今日まで続いている。しかしそれが誤りであることは、陳鴻の『長恨歌伝』の方では冒頭から『玄宗』の名が直接記されていることから明らかである。『長恨歌』が『漢皇』と称するのは、詩歌と散文との書き方の違いを表している。唐代の詩で唐王朝漢王朝に置き換えてうたうことはごくふつうに見られる。それは詩歌が現実の直叙ではなく、そこから距離をおいたもう一つの世界をうたおうとしているからだろう。そうすることによってじかに述べたのではあらわせないふくらみや陰影を伴うことにもなる。」と明快に述べている。
 岩波新書にはもう一冊白楽天をとりあげた本がある。「白楽天 大衆詩人」(1976年12月刊)である。著者は片山哲で「白楽天」(岩波新書 川合康三)はこう紹介している。「異色の著者の手になるものに片山哲『大衆詩人 白楽天』がある。片山氏は日本社会党から総理大臣になった政治家であった。その本にも政治家としての観点が反映しているのみならず、昭和三十年当時の時代の空気をうかがえる点でも興味深い。」この本は、四十年ほど前に古書店で買って読んだ。