東京大空襲の記録

写真版 東京大空襲の記録 (新潮文庫)

写真版 東京大空襲の記録 (新潮文庫)

 数年前、まだ仕事をしていた時に、会社が属する団体の主催で平和を考える集会があり、作家の早乙女勝元さんを講師に呼んだ。
 そこでは、彼が経験した東京大空襲の話をされた。当時12歳のことだった。講演の後、講師を囲んで懇談会をしたが、翌日には同行された奥さんと二人を徳島の名所(脇町のうだつの町並み・鳴門のドイツ館など)に案内をした。その時に頂いた本が本書である。本の扉には「平和をあしたに 早乙女勝元」と署名してあった。
 1945年3月10日の東京大空襲では約10万人の人が亡くなったと言われている。今でも正確な数字はわからない。
 アメリカ側の数字によると、太平洋戦争を通じ「かれらが日本本土に投下した爆弾(焼夷弾をふくむ)の総重量は161,425トンで、その内訳は6,740トンが海軍航空隊で、7,109トンが極東空軍、147,576トンが在マリアナ航空軍となり、B29の延べ出撃機数は34,041機に達した。」とある。本書の編著者である早乙女勝元と東京空襲を記録する会では、「計130回にも及ぶ米軍機によって出た被害は死者約115,000人以上、負傷者約15万人、損害を受けた家屋約85万戸、罹災者約310万人と推定せざるを得なかった。」と本書で記している。3月10日の大空襲は、広島・長崎に投下された原爆による被害とほぼ同じであった。本書では被害の実相が写真によって生々しく記録されている。
 アメリカ軍によるこのような無差別爆撃には、前例がある。1937年のナチス・ドイツによるスペインのバスク地方への爆撃、1938年の日本軍による中国・重慶への爆撃などである。アメリカ軍はその後も幾多の戦争で、ベトナムイラクアフガニスタンへの無差別爆撃を続けている。
 本書の中でジャーナリストの松浦総三は「空襲記録運動と早乙女勝元氏」と題してこう書いている。「東京大空襲については、日米支配層は言及していないが、広島・長崎原爆投下については、トルーマンからレーガン大統領まで『戦争を早く終わらせ、米兵の損害をすくなくするため』に原爆を投下したことを繰返している。もし、再びそういう事態になれば原爆投下も辞さないというのだ。日本の天皇は記者会見で『広島・長崎の人々には気の毒だが、戦争中だから仕方がなかった』と云った。もし、再び戦争がおこり、原爆投下されても『戦争中だから仕方がない』のだろうか。私はこの言葉には反対である。」
 非戦闘員である市民を何十万人、何百万人も殺すのが「近代戦争」だとしたらそれを阻止する取り組みを市民レベルで活発にさせなけらばならないと思う。その第一歩が」核兵器廃絶」の運動で、そのためにも日米間にある多くの密約は解明させる必要がある。
 東京大空襲では多くの地域が焼かれた、私が生まれた東京大田区の馬込は幸いにも空襲に会うことはなかった。しかし、大田区では蒲田・大森は大きな被害を受けた。
 我が家にあった著者の本は、「東京大空襲」(岩波新書)・「火の瞳」(講談社文庫)・「共働きはラクじゃないヨ」(草土文化)であった。
 早乙女さんは、東京空襲を記録するための活動を続けて、下記のセンターを作った。
東京大空襲・戦災資料センターとは
東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センターです。2002年の3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館。さらに2007年3月には、いのちと平和のバトンを未来にきちんと受け渡すために、増築を実現しました。
東京都江東区北砂1丁目5-4