魔都上海 日本知識人の「近代」体験

 19日(日)は三嶺(1,893m)に登ってきた。右足親指の亀裂骨折からおよそ2カ月ぶりの登山だったので、かなり疲れた。詳細は、マサ子通信パート2を参照。
 昨日は、守大助さんを支援する徳島の会の役員会であった。役員会の後、短時間ではあったが徳島駅前で、守さんのえん罪を晴らすための宣伝行動を行った。事件のことを知っている人もあり、えん罪だと説明すると納得してくれる人もいた。とにかく、密室での乱暴な自白強要が未だに続いていることが、えん罪を生む大きな要因の一つには間違いない。法廷では、自白調書の信ぴょう性について、厳密に精査してもらいたいものだ。
 帰りに、天羽酒店に立ち寄って日本酒を購入。店主の奥さんから、もう私の近くでは彼岸花が咲いているのでは、と聞かれた。そういえば、お彼岸のこの時期には、田んぼの畦には、彼岸花が満開のはずであった。ところが家の周りの田にも、我が家の庭にも彼岸花は全く咲いていない。猛暑の影響である。
 今日は、腹部エコーの検査。そののち、徳島県議会にB型肝炎訴訟の請願行動を行う予定。大阪の原告二人と弁護士が来るので、一緒に要請行動を行う。エコー検査を行うので朝食がとれない。時間があるのでブログの更新をしているわけだが、腹が減ってつらい。
 

魔都上海 日本知識人の「近代」体験 (ちくま学芸文庫)

魔都上海 日本知識人の「近代」体験 (ちくま学芸文庫)

 本書は、2000年10月に講談社から出版されたものの文庫化。文庫化に当たり、「補論」が追加されている。
 幕末期には上海は日本と西洋とをつなぐ窓口であった。多くの日本人が、上海を起点としてヨーロッパ・アメリカに渡っている。使節団だけでなく幕府・各藩の留学生も上海を経由している。日本に来た外国人を含めて、その多くは30歳前後の若者であった。今では若者は派遣労働・就職難でその力を十分に発揮できないでいる。幕末・明治初期には上海を通じて、多くの西洋文化が紹介された。しかし、上海が欧米列強の半植民地となってからは、上海に対する日本の受け取り方が変わってきてしまう。何しろ日本は「国民国家」として欧米に追い付き追い越せの帝国主義国家になってしまうのだから。
 宣教師による漢訳洋書の幕末日本における翻訳状況の記述は、鎖国日本といってもたくさんの文物が日本に流入してきて、武士をはじめ庶民の間までかなりの西洋に対する認識があったことを示してくれている。
 グラバー邸で有名なグラバーは1858年5月に上海に来た時は19歳であったという。長崎に来たのは21歳の時。彼は艦船や武器の輸入だけでなく、薩摩藩への融資、香港上海銀行の代理、不動産の管理、保険業務への参加、ドッグの保有高島炭鉱開発への参入などを行っており、その事業欲は大変なものである。これらが坂本竜馬の活動にも大きな影響を与えた。
 租界としての上海の姿、そこでの日本人の体験なども叙述されているが、多くの日本人作家も上海を訪れている。著者は、「明治維新までは、日本ないし日本人はおもに上海の『近代』的な側面にあこがれていたのにたいして、明治維新以降はむしろその「反近代」的な側面にあこがれていたと思われる。」と指摘している。
 いずれにしても現在を含め、上海はいつも変貌してやまない都市のようである。
 表題の「魔都」のその後について著者は、「結論から言うと、その魔性を排斥し、その過激なモダニズムを消滅させたのは、初めは日本の占領、次に新中国の成立、つまりまさにこの意外なる両者の『合作』によって、上海のその後の魔都としての性格が打ち消されたのである。」としている。
 解説で、海野弘は「この本は、中国出身の研究者が日本で上海について書いた、という複眼的な視点が魅力」と書いているが、その通りではないだろうか。