仙台北陵クリニック筋弛緩剤冤罪事件で松山へ

 昨日、仙台北陵クリニック筋弛緩剤冤罪事件の話をしてほしいと、愛媛県の国民救援会から依頼の話があり、川上事務局長(守大助さんを支援する徳島の会)と一緒に松山までバスで行った。会長に、用事があったための代理である。
 会場は愛媛生協病院。ここの若手職員が毎月自主的な学習会をやっており、テーマをそれぞれ決めているとのこと。今回は医療に携わる者にとって看過できない事件である。
 私が、最初にこの事件のあらましを20分ほど話し、テレビで特集していた番組のDVDを見た。その後質疑応答。川上事務局長が適切に説明してくれた。
 冤罪事件だったことを知る人はまだ少ない。この事件が守大助さんが患者の点滴に筋弛緩剤を注入して、4名の殺人未遂と1名の殺人罪で起訴され、無期懲役が確定して、現在不当にも千葉刑務所に収監されている。
 この事件には大きな問題点がある。①筋弛緩剤は、点滴に注入して投与も、死ぬことはない。 ②急変患者の容態は、いずれも筋弛緩剤による症状と異なる。 ③大阪府警科学捜査研究所の土橋鑑定の信用性には重大な疑問がある。 ④再鑑定できないように検体の全量消費を行っている。 などである。
 そもそも、事件性がないこの件は、当時のクリニックの医療水準の低さに起因して、多くの患者が死に至ったものである。


 呉 清源(ご せいげん、1914年5月19日 - )と聞いても、年齢の高い囲碁好きの人しか知らないだろう。中国から日本に来て、戦前戦後に渡って活躍した、当時の最強の棋士といってよい。なみいる棋士が皆、呉清源に打ち込まれた。
 Wikipediaではこう紹介している。「囲碁棋士。中国福建省出身、日本棋院瀬越憲作名誉九段門下。本名は泉、清源は通称名。一時日本棋院を離れて読売新聞嘱託となるが、現在は日本棋院名誉客員棋士。全盛期には日本囲碁界の第一人者として君臨し、「昭和の棋聖」とも称される。木谷實とともに「新布石」の創始者としても知られる。」

 長兄浣は満州国の官僚となり、台湾に渡ったが公職に就けず、さらに米国に渡って亡くなった。次兄の炎は抗日戦争を戦い共産党に入党し、大学教授になったが文化大革命では大きな痛手を受けた。3人とも日本で学んでいる。
 日中戦争に翻弄された3人の生涯は、当時の多くの中国人が経験した道でもある。
 筆者は、「それにしても国境とは何だろう。かくも長い間、呉家の三兄弟を分け隔て続けた国家とは何だろう。同じ民族であり、同じ言葉を話し、同じ教育を受けて育った三兄弟の自由な往来が実現したのは、二十世紀も終わりに近づいたころなのである。一人は家族のために生き、一人は祖国のために生き、一人は己の才能のために生きた・・・。少なくとも二十世紀の歴史は、三兄弟それぞれを隔絶するような作用を果たしたのである。」と書いている。
 戦争・国家とはかくも非情なものである。沖縄では今でも戦争の負の遺産が広大な米軍基地として残っている。明日の沖縄県知事選挙の投票、その負の遺産が取り払われる結果を見たい。