沖縄と中国芸能

沖縄と中国芸能 (1984年) (おきなわ文庫〈13〉)

沖縄と中国芸能 (1984年) (おきなわ文庫〈13〉)

 11月18日・19日に東京へB型肝炎訴訟の行動に行った時、神田の古書店に立ち寄って、本書を購入した。新書版のこの本のはほかにも、沖縄を知るために何種類も出版されている。
 目次は、「沖縄と中国芸能のかかわり」「民俗芸能としての路次楽」(路次とは道すがらという意味)「いわゆる『打花鼓』とは―その比較研究」からなっている。「打花鼓」は中国の鳳陽地方に起こった一種の唱いもの。太鼓に合わせて唱う。鳳陽花鼓と中国語辞書には書いてあった。
 中国と琉球が正式に修好を結んだのは、今から600年余り前の1372年と言うから、その関係はかなり古い。また、沖縄に中国音楽が伝来されたのは、1392年の閩(びん 中国福建省に住む)人36姓の琉球帰化以降になると、本書では指摘している。また、「沖縄に帰化した中国人との接触や長期間にわたって中国への進貢使節団の派遣、それに中国への官生、つまり今日でいう留学生の派遣、更に中国からの冊封使冊封とは、冊書を賜って領地を与えること。郡王とか貴妃とかの身分を与える時に行われるから、すなわち、それらの地位を与えられることになる、と漢字辞典にあった)の来琉などからして、当時の琉球人は何らかのかたちで中国人や中国文化に接する機会が多かったのである。と指摘している。
 そこで、沖縄に伝えられて今に至っているのが、路次楽と打花鼓というわけだ。もともと、中国語で歌われていたものが、年月を経るに従って、意味が分からなくなり、歌う順番も変化して、歌の一部は欠落してしまった。
 琉球から江戸に上るときに、これらの歌と踊りは路みち披露されたので、多くの当時の人たちは興味深く見物したようだ。その有様が絵にも残されている。「江戸上りとは、1609年に琉球薩摩藩支配下に置かれてから、半強制的に江戸幕府に対して、琉球より慶賀使及び謝恩使の派遣を義務付けられたことを言っている。」
 琉球は、日本と中国のはざまでその位置が、不安定なままになっていた。
 今でも受け継がれている歌詞を、著者は苦労して再現している。中国語で当初発音されていたものが、残っている沖縄の発音では全く分からない。以下、こうだ。
 ハウティチャ―シンファ―
 ハウティチャ―シンファ―
 ユ―チャ―ティ― ジンエ―ジンイ−
 クッチャイニ―イ―ライ
 
 好一朶鮮花 hao yiduo xianhua(ハオ イ-ドウオ シエンフア)
 好一朶鮮花 hao yiduo xianhua(ハオ イ-ドウオ シエンフア)
 有朝的一日 you zhaode yiri (ヨウ ザオダ イ-リ-)
 落在我家 luo zai wojia (ゥオ ザイ ヲオジア)

 (拙訳)
 きれいな花
 きれいな花
 ある朝の日
 私の家に落ちた