高杉一郎「征きて還りし兵の記憶」

 B型肝炎訴訟は新たな場にうつったが、国会が始まって改めて政府・国会への働きかけが必要になってきた。休む間がないというのが現状である。
 私が、高杉一郎を知ったのはエスぺランチストとしてであった。魯迅が盲目の詩人エロシェンコの関わりを持っていて、彼の詩を中国で紹介しているが、高杉一郎も彼の全集を翻訳している。また、自費出版した「孺子の牛」の「30 嵐のなかのささやき」の著者長谷川テルの評伝も著している(中国の緑の星 朝日新聞社)。亜紀書房からは「反戦エスペランチスト 長谷川テル作品集」が出版されている。
 「ウィキペディア」によると、長谷川テルの略歴は下記のとおり。
長谷川 テル(はせがわ てる、1912年3月7日 - 1947年1月10日)は、日本の反戦活動家、エスペランティスト、抗日運動家。
本名は長谷川照子(はせがわ てるこ)。筆名は緑川英子(みどりかわ えいこ)。エスペラント名は Verda Majo (ヴェルダ・マーヨ:緑の五月)。
 山梨県大月市に生まれる。1929年、東京府立第三高女(現在の東京都立駒場高校)を卒業後、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)に進学。学内で文化サークルを同級生と伴に作り、エスペラントを学ぶ。1932年、左翼 組織の疑いをかけられ検挙される。数日間の拘留を受け、大学を自主退学。タイプライターの教習所に通い卒業。
 1933年、財団法人日本エスペラント学会で無給タイピストとして働き、日本エスペラント文学研究会の会員になる(「日本エスペラント文学」創刊に参加)。1934年、NHKアナウンサーの第一次試験に合格、前歴による不採用を予想して第二次試験には出頭せず。1935年、上海エスペラント協会誌『ラ・モンド(La Mondo)』に「日本における婦人の状態」を書く。1936年、雑誌『世界の子ども』に協力、エスペラントで『日本史』を書き外国での出版の試みに失敗、満州国の留学生、劉仁(リウレン)と結婚。
 1937年、日本を去り上海でエスペラント発表50年祭に参加、その後広州へ行く。1938年広東国際協会ができ、エスペラント部で働き始める。日本へのエスペラント等による反戦文書の流し込みを行っていたが、思わぬ疑いを受け、スパイ容疑で香港に追放される。新華日報に『愛と憎しみ』を翻訳。国民党中央宣伝部国際宣伝処対日科で崔万秋の下で抗日放送に従事。日本の都新聞(現在の東京新聞)により「嬌声売国奴」として評される。1941年、石川達三著『生きている兵隊』のエスペラントでの翻訳。国際宣伝処から政治部文化工作委員会へ転属。長男出産。『あらしの中からささやく声(Flustr‘ el uragano )』出版。1945年、『戦う中国で(En Ĉinio Batalanta)』を出版。1946年、長女出産。瀋陽で長谷川兼太郎の家を間借りする。長谷川兼太郎が日本に帰国しテルの消息を家族に伝える。ハルピンで東北行政委員会編審委員会に勤務。
 1947年1月10日、子供を産み育てる余裕のないことからチャムスで妊娠中絶手術を受けるも、感染症で死去。同年4月22日には劉仁も肺水腫で死去。二人はチャムス烈士陵園に葬られ、墓碑には「国際主義戦士 緑川英子」と刻まれている。

征きて還りし兵の記憶 (岩波現代文庫)

征きて還りし兵の記憶 (岩波現代文庫)

 「征きて還りし兵の記憶」は、高杉一郎がハルピンで敗戦を迎え、4年間シベリアに抑留された。過酷な労働に従事した時に見聞きした、スターリン支配下ソ連の実情を「極光のかげに」で書き表した。このソ連は、当時世界革命の中心とみなされていたが、実態は社会主義とは全く無縁な国であった。戦前の改造社時代の編集人としてのことから、シベリア抑留、帰還後のさまざまなできごとを書いているが、自分の視点を崩さない、その姿勢には感心させられる。彼は、編集者としては、宮本百合子中野重治を高く評価しているが、そこでも妥協を許さない立場と、それでいて包容力のある見方をしている。
 中野重治にしても宮本顕治にしても、戦後しばらくはスターリン崇拝の呪縛から逃れられないでいた。中野は、「やっぱりスターリンは偉大な政治家だよ」と言い、宮本顕治は「極光のかげに」について、「あの本は偉大な政治家のスターリンをけがすものだ」と高杉に言ったという。その後の日ソ両共産党の論争とソ連の崩壊を見ると、シベリアでの体験を本に著した高杉の話を、正当に評価できる人が少なかったということか。しかし、宮本百合子は「やっぱり、こういうことがあるのねえ」と言ったという。ロシアに数年間滞在してきた彼女にとっては、たとえ社会体制が変わったとしても納得できる体験があったのだろう。
 ところで、宮本百合子の秘書を長らくしてきた大森寿恵子(宮本百合子についての著書もある)は、百合子の死後宮本顕治と結婚した。この大森は高杉の妻の妹ということだ。この結婚のエピソードも書かれている。これは痛快ですね。新居での披露宴に招かれた時のことである。「私は、ここに集まっているのは『新日本文学』の指導者たちのはずだが、フェミニズムのひとかけらもないのだろうかとふしぎに思った。これからこの家の主婦になろうとしている女性をなぜ会話のなかにひきいれようとはしないのか。私はブラーツク収容所の事務所のことを思いだした。あそこで常時働いていた六名の男性は下級将校ばかりだったが、彼らはおなじ職場で働いている三名の女性をいつもおなじ事務と雑談のサークルのなかに誘いこんでいた。アメリカ映画に出てくるようなフェミニズムとはまるでちがうが、日常生活にとけこんだ実質的なフェミニズムがあそこにはあった。いま、ここに集まっているのは、古い日本の風俗のなかで育てられた亭主関白ばかりなのか。私は起ちあがっていって、その晩のホストである宮本顕治のすぐ横にひとつの座布団をおき、義妹には『あんたはここに座っていなさい』と言って座らせると、みずからの形をあらためて言った。『結婚記念の歌をうたいます。男が新妻に終生の愛を誓う歌です』。高杉の前で座っていた男たちは、口先は社会主義者でも、頭の中は正真正銘の保守主義者であった。
 しかし、社会主義者もそう捨てたものではない。高杉一郎不破哲三が書いた宮本百合子の論文について、「これらの論文を年度を追って注意深く読んでいくと、そこにえがかれた宮本百合子像が、耳を傾けている同伴者、忠実に学習する勤勉な生徒、みずから生き方を見つけ、自分自身の思うところと構想を自信をもって主張する作家の姿に変わってゆく経過があざやかである。それらの論文のなかでもとくに、まったく閉塞された戦時下の状況のもとで宮本百合子の生活者としての思考方法が研ぎすまされてゆく経過を論じた『戦時下の宮本百合子と婦人作家論』と、ようやく形をとりはじめた彼女のあたらしい構想の誕生を論じた『道標の構想と方法の誕生を追う』は力論で、彼は百合子の小説『一本の花』から『おもかげ』『広場』へいたる生活者の思考方法の発展に注目しているのだ。そのような百合子像を不破哲三が明らかにすることができたのは、彼が1982年3月に『スターリン大国主義』を書ききったことと無関係ではあるまいと私は思った。」
 スターリンソ連からの桎梏から抜け出すには、長い時間がかかったのだ。『スターリン大国主義』については、「私が俘虜体験と日々の苦役ののなかで目撃したかずかずの疑問について、手持ちの貧しい知識と勘と推論だけで判断をくだしてきたことが、この本のなかでは資料と文献にもとづいて、歴史的に、そして理論的に説明されていた。スターリンのもろもろの政策について私が考え、おそるおそる書いてきたことは大体まちがっていなかったことを私はこの本でたしかめることができた。」と書いている。
 このごろ、品川正治辻井喬水上勉等、各界の著名人が赤旗紙上に登場しているが、今まで以上にこの輪が広がることが求められている。そのためには、受け入れる側の資質が問われているのではないだろうか。

写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 牛乗り天神 
俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  ●梅は匂ひよ 立木はいらぬ 人は心よ 姿はいらぬ
  ●月待つ月は 冴えもせで 君待つ月は 冴ゆるよの
  ●誰が作りし 恋の道は 如何なる人も 踏み迷ふ