高麗博物館と「憲法を守る力」

 東京のB型肝炎訴訟原告団総会の翌日、新宿区大久保1丁目にある「高麗博物館」(第二韓国広場ビル7階)に立ち寄った。
 新聞記事で、「韓国併合100年と在日韓国・朝鮮人」(前篇 1945年まで)の展示があったからである。新宿駅を降りて会場まであるいて行ったのだが、近づくにつれて韓国の町かと見まごうばかりに変わってきた。韓国の雑貨店・飲食店がずらっと立ち並んでいた。博物館の館員に聞くと、以前は韓国・朝鮮人はここには住んでいなかったとのこと。韓流ブームといった一時的なものでなく、根付いているといった風情であった。若い女性、中年過ぎの女性が圧倒的に多く、男性の私がこの街を歩くのは、なんとなく気恥ずかしい思いにさせられた。
 小さなビルの7階にそれはあった。博物館のホームページではこう紹介されていた。
 

  高麗博物館の概要
 高麗博物館は日本とコリアとの交流史の博物館です。「高麗」は世界の共通語「コリア」の意味、つまり韓国と朝鮮をひとつにとらえた言葉です。この香り高い文字を大事にしていきます。
 日本と韓国の関係は、2002年6月のW杯サッカー以後、かなり明るくなごやかな空気に変りました。とても大切な変化です。しかし、日本と北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)との関係は、まだいろいろとむずかしい問題があります。
 有史以前から、朝鮮半島と日本列島の人々は、豊かに交流してきました。とくに朝鮮文化は、長い間日本に多くの益をもたらしてきました。ところが日本は明治になってコリアを侵略し、支配しました。それは秀吉の悪夢の再来を意味するものでした。
 1945年の敗戦後も在日コリアンが日本にいるということ、今も差別が続いているということは、過酷な植民地支配の歴史を象徴しています。しかし、私たち日本の多くの者は、このような歴史も、コリアンの心の内も、ほとんど理解しないで過ごしてきました。
 私たちはこのような歴史とコリアンの心を、日本人として最少限の道義的責任として、理解することを心がけたいと思います。そのような試みは、これからの日本とコリアの信頼関係の土台になるものです。幸い、コリアの側から過去の痛みを乗り越えて新たな関係を結ぼうという、未来志向の呼びかけがなされるようになりました。在日の人たちも困難をくぐってきたたくましさで、社会の中で人権運動の先頭に立ち、また日本と韓国・朝鮮をつなぐ大きな動きへと踏み出しています。このような変化によって、私たちは日本・コリアの交流の歴史に向かい合い、コリアの良き隣人となる道を進んで行きたいと思います。
 高麗博物館は皆様のご来館を歓迎いたします。ぜひ一度足をお運び下さい。


 ボランティアの館員が、熱心に展示物の説明をしてくれた。今、日本には約60万人もの在日韓国・朝鮮人がいて、日本在住外国人の約40%を占めている。100年前の「韓国併合」(日本では”併合”だが、韓国では”韓国強占”としている)以降多くの韓国・朝鮮人が強制的に・半強制的に北は南樺太、千島列島から、南は沖縄、小笠原諸島までの広い範囲にまたがる日本に連れてこられた。しかもこれは、日本国内にとどまず当時日本が支配していた地域にも送り込まれていた。
 特攻隊の一員になった飛行士は、戦後韓国では国を裏切ったものとして生活せざるを得なかった。「朝鮮人特攻隊 日本人として死んだ英霊たち」(新潮新書 蠔淵弘 べ・ヨンホン)に詳しく記されている。韓国併合から10年を経た1920年には3万人、1930年29.8万人、1940年119万人、1945年には210万人にもなっている。アジア太平洋戦争が進むにつれて、日本国内の労働人口の減少を、朝鮮からの強制的移入で補ったのであった。日本に来て過酷な労働に従事した彼らの扱いについても、豊富な資料で紹介されいる。今、長崎では「軍艦島」が一寸した観光ブームで沸いているが、そこでも韓国・朝鮮人が炭鉱労働に従事していた。しかし、ガイドの案内では全く出てこないそうだ。
 関東大震災での虐殺、連行された労働現場での虐殺、工事現場での事故による死亡、広島・長崎での原爆による死亡などなど、どれも看過できない日本の加害行為である。土地を奪われ・家を奪われ・名前を奪われ・言葉を奪われてきた。死んだ時の戒名も日本名。
 我が家にある韓国・朝鮮関係の本は80冊ほど、それも若い時に読んだものがほとんどで、最近は事情に疎い。

朝鮮人特攻隊―「日本人」として死んだ英霊たち (新潮新書)

朝鮮人特攻隊―「日本人」として死んだ英霊たち (新潮新書)

 池袋のジュンク堂にも立ち寄って本を買った。その一冊が「憲法を守る力」である。1952年に弘文堂から「アテネ文庫」の一冊として出版されたものの再刊(昨年10月)である。当時の憲法の置かれた状況が分かって面白い。憲法九条はできた早々から、「改正」の荒波を船出している。それを守るのは私たちの意思と行動であるわけだ。
 著者の佐藤功の略歴は以下のとおり。佐藤 功(さとう いさお、1915年(大正4年)3月29日 - 2006年(平成18年)6月17日)は京都府京都市出身の法学者。専門は憲法宮沢俊義門下。上智大学名誉教授。文化功労者


憲法を守る力 (1952年) (アテネ文庫〈第188〉)

憲法を守る力 (1952年) (アテネ文庫〈第188〉)


写真は宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 狆 98歳の作品

俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  ●深山清水は 底から澄むが 君の心は 底からか
  ●真の闇にも 迷はぬ我を ああさてそさまの 迷はする
  ●吹けよ松風 挙れよすだれ 今の小唄の 主見たや