大阪原告共同代表、B型肝炎訴訟を語る

 今日(3月5日)徳島市のアスティとくしまで「2011年3.8国際女性デーin徳島実行委員会」主催の会合があり、B型肝炎訴訟大阪原告共同代表の小池真紀子さんが「絶望のふちからいのちの輝きを見つめて B型肝炎集団訴訟のまっただ中から」と題して話をした。私も参加したが、徳島肝炎の会の会員さんにも呼びかけ、全体で43名が参加した。
 集会では、実行委員会を代表して中嶋さんの挨拶のあと、各界から女性の取り組みが報告された。医療分野では、深刻になっている看護師の労働環境・人手不足を解消するための看護師増やせの取り組み、農業分野では日本の食の安全と農家をつぶしてしまうTPP参加反対の取り組み、子供の分野では親には多くの負担をかけさせて、乳幼児には詰め込みの安全性が無視されようとしている保育行政の充実を求める取り組み、母親分野では今年7月30日〜31日に広島で開かれ、徳島からの参加目標を150名とした「第57回日本母親大会」の取り組みが報告された。どれをとっても、女性の置かれた厳しい状況を打開しようとする、重要な取り組みであると思う。
 小池さんは徳島の那賀町(旧那賀郡木頭村出身)で高校まで徳島で過ごし、卒業後大阪で就職した。木頭村の豊かな自然の中で育ち、お父さんは初めて木頭村で柚子を栽培して、朝日新聞の農業に関する賞も受賞したという。1976年に長女を出産した際にB型肝炎ウイルスの感染が判明し、子供も母子感染していると医師から告げられ、3年後に出産した長男も同じく母子感染した。
 発病がわかったのは、2004年6月に海外旅行をしようとした際に行った血液検査。医師からは肝硬変に近いB型慢性肝炎と診断された。インターフェロン治療を6か月受けたが、副作用がきつくうつ・発熱・甲状腺機能低下症も発病するなど、苦しみ自殺も考えたという。その時一番ありがたかったのは、小池さんの異変に気付いた夫が「絶対に自分で命を絶ったらいかん」という一言だったという。子の時の治療には300万円かかったということだから、自営業をしている小池さんにとっては大変な経済的負担であったし、この費用を負担できない患者は治療をあきらめるしかないのが、今の日本の医療の状況である。
 歯科技工士だった長男は自分も発病しないかという不安と、きつい労働でひきこもりになったという。長女は子供を出産した後29歳で発病した。小池さんは大阪地裁で陳述した娘さんの陳述書を紹介した。陳述書では、母親が闘病中で幼い子供を抱えて自分も闘病しなければならない苦しさが語られていた。また、小池さんが自分と同じ苦しみを娘さんに与えたことについて、「自分のせいでごめんね」と娘さんに言った時、「なぜ母親が謝らなければならないのか。そうではない。子供にも自分と同じ苦しみを合わせるのか。子供の成人した姿を見られるのか。」大きな不安を抱きながらも、母親である私をかばってくれた。など、一家全員の闘病の辛さを語った。
 現在、大阪の原告は120名ほどで、B型肝炎ということがわかると差別・偏見を受けるという状況で多くの被害者が匿名で提訴している。小池さんも初めは匿名原告であったが、裁判傍聴・国や国会への要請・マスコミへの訴えなどを通じて、匿名では大きな影響を与えることはできないと思い、偏見を気にする自分を変える思いで実名原告になったと話した。この勇気が必要な大変な決断も家族の後押しがあったからと言っている。この決断が、今の大阪原告団の力になっていると思う。
 裁判の状況についても、今の一番の課題は、国が法律を盾にとって切り捨てようとしている発病から20年も経過した慢性肝炎患者をどうするかであり、この人たちを残して国との和解はあり得ないと強調した。国が全員救済をしようとしない中で、このことを打開するために国会議員に対し全国の原告団弁護団が力を尽くして、議員立法を求める賛同署名を行っていることについても話がされた。
 小池さんの話を聞いて、2名の肝炎患者が自分の治療の状況を話されたが、肝炎患者の置かれている状況がよく理解されたのではないか。また、子供を持つ若い母親からは、20年を越える被害者を救済しないのならば、何のための法律か、肝炎の治療は自分が治るように援助することはできないが、差別・偏見をなくすことは自分の考えでできると発言した。司会者は、トンネルじん肺訴訟の徳島事務局を担当している人で、じん肺の取り組みでは国会議員750名ほどに対し署名の取り組みを行い、550名ほど集めて運動を前進させたと話があり、B型肝炎訴訟でも同様な取り組みが必要と思いを新たにした。
 この会には朝日新聞毎日新聞徳島新聞から取材があった。また、会の前には小池さんのお父さんの法事が徳島であり、法事の後に小池さんの母親、姉妹だけでなく、那賀高校の恩師が話を聞きに来てくれた。どこへ行くにも小池さんは、B型肝炎訴訟が生活の中心になっていると感じさせられた。


上の写真は宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 鯛抱き童子 93歳


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  ○人はわるない 我が身がわるい 破れ車で わがわるい
  ○親が片親 御座らぬ故に 人もあなずりや 身も痩せる
  ○人はけなりや 咲く花なれど 我は木陰の 萎れ草