北雪の釘 ロバート・ファン・ヒューリック

北雪の釘 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ1793)

北雪の釘 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ1793)

 英語版の原題は「The Chinese Nail Murders」、中国では「鉄釘案」となっている。この本は首なし死体事件を題材にしているが、著者は13世紀中国の判例集「棠陰比事」の第64話を下敷きにしているという。岩波文庫では中国文学者の駒田信二が翻訳している。文庫の解説にはこう書かれていた。
 『棠陰比事』とは「名裁判くらべ」というほどの意味.中国古来のすぐれた判決の実例が二話ずつ対比するかたちで百四十四採られている.江戸時代に伝来して圧倒的な人気を博し,これにならって『板倉政要』や『大岡政談』,西鶴の『本朝桜陰比事』などの裁判ものがかかれた.推理小説ファンにとって見のがせぬ一冊である。

 我が家の書棚を調べてみたら、「中国古典文学大系39」に「剪燈新話・余話」「西湖佳話」と一緒に「棠陰比事」が入っていたが、積読である。この本では「無首の死体」と題して載っていたので読んでみた。この訳者も駒田信二で解説を読むと、「棠陰」とは「棠陰の聴」で、立派な裁判の意であるとしている。「比事」とは「事を比べる」ことで、同類のものを二つ並べる、あるいは、比類するものを対比させることであるとしている。善い裁判例ろ悪い裁判例を対比させて、刑獄を司る者の参考にさせたようだ。

 「北雪の釘」で著者は、なかなか解決できない難事件に当面した狄判事の心情をこう描いている。「ほとほと疲れた。世を捨て、心の平安を得たい。だが、できない相談なのはわかっている。しがらみがなければ隠者にもなれようが、自分にはあまたのつとめが待っている。国と民に身を捧げる誓いをたて、妻をめとり、子らをもうけた。借金取りから逃げ回る卑怯者よろしく逃げ出すわけにはいかない。生き続けるのだ、これからも。」
 本書の中では「長信夕詞」という七言律詩の詩が出てくるのだが、誰の詩なのであろうか。
 この寒空にはぐれた鳥がひとり泣いている
 胸破る物思いのあまり涙が涸れてしまった
 過ぎた日々を思い出しても暗いことばかり
 喜びなどとうに絶えはて後悔に明け暮れる
 もういちど別の誰かと人生をやり直せたら
 巡り来る新年の夕べに寒梅が咲いたように
 枝ぶりにさそわれてふと窓を開けてみたら
 梅花が散る 純白の雪をあえかに鳴らして

 狄判事と郭夫人(薬局の主で政庁の検視官の妻)との間の密やかな心の交流を表現した詩である。



 上の写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 相撲取りだるま 92歳


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  〇帰る野路の 浅茅に宿る 露に添へたる 我が涙
  〇君に逢ふ夜は 埴生の小屋も 玉の臺(うてな)に 優るもの
  〇思ひ重ねて 苦しや今は あはで命も 絶えなまし