どくろ杯 金子光晴

どくろ杯 (中公文庫)

どくろ杯 (中公文庫)

 詩人・金子光晴の自伝である。金子光晴の略歴は以下のとおり(かねこ みつはる、1895年(明治28年)12月25日 - 1975年(昭和50年)6月30日)は、愛知県津島市生まれの詩人。本名は安和。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいる。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。
 金子光晴を読んだのは、もう40年ほど前になる。「日本人について」(春秋社 1959年)と新潮文庫の「現代詩人選集 第5巻」(1960年)にある20首ほどの詩。気に入った詩のタイトルの頭に丸印がつけてあった。「どくろ杯」は彼の生い立ちから上海・南洋に妻と逃げるように行った時期までの事が書かれているので買ってみた。ついでに「「ねむれ巴里」「西ひがし」も購入した。
 とにかく、この時期の文学者はハチャメチャである。借金・夜逃げは当たり前、人をだますようにしてでも生きてゆくために無茶をする。今では到底想像できないが、1920・30年代はそういう人物の存在を許容していた時代であった。
 「どくろ杯」の中に、知っている画家の名前が出ていた。上野山 清貢(うえのやま きよつぐ、1889年6月9日 - 1960年1月1日 北海道江別市)生まれ。北海道師範学校図画専科《現北海道教育大学》修了。)である。上野山は、私の小学校からの友人の祖父である。三か所ほど上野山について書かれていた。
 12月の寒い時期上海に着いてしばらくたった金子に、「中古の背広を手に入れたが、レーンコートがいかにも寒そうなのを見兼ねたものか、画家の上野山清貢が、着ていた綾織りの外套をぬいで、私にくれた。イギリス羅紗の仕立てのいい外套だったが。私はまた、その外套を、パリで骨董行商をしている日本の老人の肩にかけてやった。」
 秋田儀一という画家と連れだって、蘇州で工場を経営している企業家網野に絵を売り込みに行った時、「上野山清貢が一足先に蘇州に来て、網野氏を訪ね、彼の許に滞留して描きあげた百号近い精力的な作品を八百円とひきかえに帰ったあとだったので、網野氏にしても、引きつづいて来た画家持参の画を拒絶する理由は充分であった。上野山は前年日展で特選になった評判の新進有望な絵師であるのにくらべて、秋田という画家の名は、はじめてきく名で、投機やしょうばいの駆引きだけで今日まで仕上げてきたあいてでなくても、にべなく追払われるのは当然であった。」
 上海で金子は、勿論魯迅とも会っている。内山書店である。「内山書店でも、この二人(魯迅と郁達夫)と出会うことが多かった。奥のサロンの椅子に腰掛けていたり、書棚の前に並んで貼りついたりしていた。内山書店は、中日の知識人の友好の場であったばかりでなく、中国人の知識の栄養の『乳首』の役割を果たしていた。


 上の写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 牛乗り童子


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  〇忍ぶ心を 色には出さじ 物や思ふと 問ふばかり
  〇思ひあまりて 見(まみ)えし夢よ 覚めて涙の 外ぞなき
  〇まだき我が名の 立ちたるとても 思ひそめしを 一筋に