四国放送「フォーカス徳島」でB型肝炎訴訟取り上げる

 昨夕の四国放送「フォーカス徳島」でB型肝炎訴訟が取り上げられた。ここには、大阪原告団の共同代表・小池真紀子さんが登場した。
 番組では、小池さんが自宅でインタビューに応じた。小池さんの病気、子どもへの母子感染の時の苦しさが語られた。小池さんは、官邸での菅首相の謝罪・基本合意の中身がきちんと実行されるように希望した。特に、20年の除斥期間を経た人への不当な差別の改善を訴えた。
 また、番組では大阪弁護団が相談に乗っていることを知らせてくれた。この放送を機会に、徳島でも原告となる被害者が多くなることを希望する。今の制度では、原告となって政府に提訴しなければ、損害賠償を請求できないという矛盾がある。
 相談事務所は下記の通り。
 〒556-0013 大阪市浪速区戎本町1-9-21 酒井屋ビル3号館302号室
  全国B型肝炎訴訟大阪弁護団
  相談用電話:06-6647-0300
  ファックス:06-6647-0302
 問い合わせの電話が多く、なかなかつながらないとは思うが、気長に電話してもらいたい。

 先日の基本合意調印日に東京に行った際、購入したのが「日中漫画競作集」(8.15日本漫画事務局『八月十五日の会』と「日本百名漫画家憶停戦日」(人民日報出版社)であった。前者は日中の漫画家の作品。後者は日本の漫画家(一部著名人の文章に漫画家が絵を添えたもの)で、あの8月15日に自分はどうしていたか、どう思ったか、戦後生まれの人は8月15日をどう思っているかを、一枚の絵にしたものである。今、中国語教室では各人が持ち回りで教材を探して学習しているので、そこにあった落語家林家木久蔵(現在は木久扇 ラーメンを売るだけではないんですね。 うまいはずである。若い時に河童の漫画で有名な清水崑のもとに弟子入りしていたのだから本格的である)を教材にすることにした。
 木久扇の絵に、中国語で短い文が添えられている。
 拙訳は以下の通り。
   ラジオの前で
  1945年8月15日の正午、私は杉並区立第三国民学校の運動場で、天皇がみずから書いた戦争を収束する玉音放送を聞いていた。その時私は8歳、国民学校の1年生であった。
 私の家は日本橋の久松町にあり、戦火で焼き尽くされた。一家は親戚を頼りにして、中央線の西荻窪駅近くに移転して住んでいた。家にはラジオがなく、正午にとても重要な放送があると言うことで、母親に半ズボンをはかされ、昼ごはんも早く食べるようにせっつかれて、区立桃井第三小学校の運動場にやってきたが、ラジオが朝礼台の上に置かれていて、私と近くに住む人達がじっと動かないで、ラジオの前にたって見ていた。しばらくして、箱形ラジオの放送が始まり、接触不良のためかザアザアとして、続いてアナウンサーの震え声が聞こえ、君が代が奏でられ、そのあと玉音放送が始まった。”忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え”、天皇の声は泣いているようで、人々を怖がらせた。アア、戦争は終わった。息を殺して聞いていた人達は号泣した。
 真夏の太陽は輝いて眩しく、これがとても暑かった正午であった。8歳に東京で迎えた8月15日。


上の写真は林家木久扇の絵。

 俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  ○逢う話しは 山山あれど まさか顔見りゃ 胸迫る
  ○添ふにゃ添はれず 切れるにや厭よ いつか果てしの 附く様に
  ○嘘ぢやおかんせ 其の手は喰わぬ 殺し文句に こりたもの