高杉一郎「極光のかげに」
高杉一郎の著書では「征きて還りし兵の記憶」について書いた。今回は、高杉一郎のシベリア抑留の記録である。
- 作者: 高杉一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1991/05/16
- メディア: 文庫
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厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、数多くの抑留者の命が失われた。このソ連の行いは、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言、レーニンの共産主義思想にさえに背いた国家的行為であった。(ウィキペディア参照)
著者もその被害者の一人であった。著者は、1945年8月から1949年9月までの4年間をシベリアで過ごした。著者の記録によると、「1945年8月、私たちは敗戦にあい、ソ連軍による武装解除を受けたのち、10月末、集結地梅林から夏服のまま、貨車でイルクーツク州へ送られた。私たちが労働力としてシベリアへ送られる軍事俘虜であることに気がついたのは、沿海州を北上している貨車のなかであった。シベリアでは6万数千の日本将兵が死んだというが、私はイルクーツク州で6つの俘虜収容所をへめぐったのち、1979年9月末、ナホトカをへて窮乏のどん底で苦しんでいる妻子のもとへ帰った。」日本政府は、このスターリンの不当な強制労働に対して、抗議もしなかったそうである。
1950年に出版されたこの本は、当時のスターリン支配下のソ連がいかに社会主義とは無縁なものであるかを明らかにした。ソ連が美化されていた当時、その本質を明らかにした著者の姿勢は彼の他の著作にも見られるが、権力とは一線を画し、己の見たこと、己が考えたことに対する確固とした信念があったと思う。
スターリン支配下の市民は、その悪政について批判することはもちろんできなかったのだから、その後のソ連指導者がいかに繕うとも、根本的なところから社会主義国家の建設に迫ろうとしなかったため、ソ連が崩壊に至ったのは必然であった。
著者は、強制労働の苦しい中で日本帰還への希望さえなかなか見いだせなかった状況の下でも、学ぶということについては前向きであった。
上の写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 張子面 娘汐くみ
俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
●之がこうじゃと 訳さへ聞けば さのみ憎くも ないわいな
●真の夜更けに わしや寝も遣らず 夜着に凭れて 忍び泣き
●久し振りでの 今宵の御見 わたしや何から いはうやら