高杉一郎と大栗清実と6号台風

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 タイトルに全く脈絡はない。一昨日の深夜から雨と風が強くなり、昨日は朝6時から戸締りをしたり、木が風に飛ばされないように準備をした。丸一日強い風と大雨であった。カーポートや裏の物置のポリカの波板が風にあおられて大きな音を立てる。いつ外れて飛んで行ってしまうのかビクビクものであった。台風は今日の午前零時ごろ阿南市に上陸したという。
 今朝、庭を見るとあちこちに葉や小枝が飛び散っている。皇帝ダリアを始めいくつかの花が倒れ、ノウゼンカズラの枝が折れ無残な姿をしていた。倒れかかった木をおこしたり、枝を切ったり、おちた枝を集めたり、かたずけに午前中かかってしまった。その時に見つけたのが一つのムべ(郁子)の実。4年ほど前に植えた木がようやく実をつけたのだが、大風で葉がだいぶ散ったので姿を現したのだ。
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 今回読んだのは、高杉一郎の「わたしのスターリン体験」

わたしのスターリン体験 (岩波現代文庫)

わたしのスターリン体験 (岩波現代文庫)

 シベリアに抑留された著者がスターリンの論文「民族文化と国際文化」をとおしてスターリン時代の旧ソ連がいかに社会主義とは無縁の存在だったかを描き出している。「民族文化と国際文化」を読んで、「彼はこんなにも柔軟で、弁証法的な考え方をする現実政治家だったのか、人類社会の遠い未来にひとつの共通言語を予想するような文化的な政治家でもあったのか。」。高杉が学んだエスペラント語の普及に着いても、理解を示していた。しかしその後スターリンは、彼に少しでも異議を唱える国民をシベリアに送って強制労働に従事させた。また、個人崇拝を強いた。変質したスターリンに対して著者は「スターリンは、このツァーリズムの遺産であった流刑制度をひきついだだけでなく、それにナチス・ドイツの集中営制度を加えて、さらに拡大強化したのだと私は思っている。」。エスペラント語も当然弾圧された。
 この本のなかに、私の知っている人物が登場している。こう書いている。「永浜が最初に私をひきあわせてくれたエスランティストは、上大崎で無産者診療所をひらいていた内科医の大栗清実だった。永浜の五高時代(注:今の岡山大学)のエスペラント仲間だという。大栗は私を歓迎するために、彼自身が作詞したエスペラントの歌をうたってくれた。『いくとせ、ふるさと来てみれば』のメロディーをそのまま、歌詞だけをエスペラントに訳した歌だった。」 大栗清実は(1901年−1980年の社会運動家、医師)、徳島県阿南市で生まれた。
現在の岡山大学で医学を学ぶと同時に科学的社会主義についても学んだ。労働農民党に入党し、1928年三・一五事件で検挙される。そのため大学の医局に入局できず出獄後上京し、1930年大崎無産者診療所設立とともに所長になった。この無産者診療所は、1929年当時労農党代議士であった山本宣治が右翼のテロにより暗殺される事件がおき、解放運動犠牲者救援会(現在の国民救援会の前身)から「労働者・農民の病院を造れ」とのアピールが出されたことを機に作られた診療所である。このときのアピールを起草したのが大栗清実であった。1931年には日本無産者医療同盟委員長もつとめた。1933年治安維持法違反で逮捕されたのち郷里の阿南市で開業した。戦後は日本共産党に入党した。また、徳島県の民医連創設に多大な功績を果たしている。
 昨年12月には、大栗清実没後30年を記念して、「偲ぶ会」が開催され私も参加した。そこでは、大栗清実の息子さんである大栗丸人さんが父親について語った。ちなみに「丸人」(マルト)というのはエスペラント語で「三月」というそうで、丸人さんの誕生月で父親の命名ということだった。


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  ●人がどの様に 言はうと儘(まま)よ 募りやするとも 止みはせぬ
  ●添われまいとは そりや気の弱い 石に立つ矢も あるわいな
  ●柳よ柳 直(す)ぐなる柳 厭な風にも 靡(なび)かんせ