「不時着」 特攻「死」からの生還者たち

特攻――「死」からの生還者たち 不時着 (文春文庫)

特攻――「死」からの生還者たち 不時着 (文春文庫)

 先の戦争の時、軍部の無謀な「特攻作戦」によって、20歳前後の多くの若者が生きることを否定された。本書の表題のほか6編で構成されている。
 「不時着」は、終戦直前の1945年5月4日に特攻を命ぜられたが、エンジントラブルで帰還した桑原敬一さんは当時20歳。5月11日にも再度出撃して帰還している。もう、敗戦は明らかな時期であった。桑原は自身の体験を同じ文春文庫で「語られざる特攻基地・串良」と題して出版されている。
 特攻機は故障率5割6割という飛行機が当たり前で、不時着・出撃帰投は当たり前であった。戦力としてていをなさないものであった。特攻に行くことを命ぜられのは多く下士官であった。どこでもしいたげられた者がいち早く特攻として「国を守る」という美名のもとに死への旅立ちを強制された。多くの兵士が自ら希望して特攻をおこなったという人もいるが、「拒否できない」状況に追い込まれての「志願」であった。
 資料によると、海軍の特攻の状況は以下の通り。桑原も下士官の一人であった。
  階級 S20.4.1現在数 構成比率
  士官  1,269名 5.3%
  予備士官 5,944名 25.0%
  特務士官 675名 2.8%
  准士官 827名 3.5%
  下士官兵 15,114名 63.0%
  合  計 23,829名 100.0%

 また、海軍の特攻戦死者として認定されたのは捷号作戦期間中戦死者数1,873名中419名(22.4%)、天号作戦期間中戦死者数2,866名中1,590名(55.5%)であった。
 そして、著者の日高は「戦争の記憶が遠ざかるにつれ、特攻隊員は異界の美化された物語として語られるようになった。語り部の多くは、出撃経験はもとより搭乗員としての訓練を受けたこともない、特攻隊員を悲劇の英雄として仰ぎ見た人たちだ---中略---さらにたちが悪かったのは、彼らに『特攻』を命じながら戦後を生き延び『英霊たちの真情』を講演会で語ったりするエリート士官たちの存在だった。彼らの話のなかでは生き残りの人たちを、赤穂浪士の討ち入りに脱落した侍のような、『生き恥をさらしている』という負の美学で語ることが多かった。」と記している。
 軍隊は典型的な学歴社会だから、海軍も同様であった。「特攻基地の参謀・上層部はすべて海軍兵学校出身者であり、隊員は予備学生と予科練生でだった。階級差別の構図は海兵出身者→予備学生出身者→予科練出身者の順だった。その下にいる一般兵たちは人間としても軽視されていた。」
 士官が書く特攻の記録と下士官が書く特攻の記録は当然、違ったものになる。特攻に出撃した人の一部には覚醒成分が含まれた薬物を投与されたという。「ヒロウ(疲労)がポンと回復する」というヒロポン覚醒剤・塩酸メタンフェタミン)である。これは戦後多くの国民の間で広がり、ヒロポン中毒が蔓延し、社会的に多くの負を生じた。桑原も「突撃錠」という薬を飲まされたという。中枢神経を興奮させるこの薬は、特攻出撃する隊員の不安を軽減するものであった。
 本書の中では「沖縄のつつじの墓標」が興味深かった。戦時中、軍歌で名を売った波平暁男の生涯が書かれている。



 上の写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品の版画。


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  ○来るか来るかと 川下見れば 川や柳の 影ばかり
  ○来るか来るかと 川裾見れば 川原柳の 音ばかり
  ○来るか来るかと 浜へ出て見れば 浜の松風 音ばかり