今年最後の山登り

 25日(日)、今年最後の山登りは高越山(1,122m)。健生山の会のW石会長、知り合いのIさんと私たち夫婦。数日前から寒波が来ていて、遠くに見える高越山の頂には白いものが見える。
 ふいご温泉脇の登山口にもうっすらと雪が見えた。8時15分に出発。中間点の中ノ郷に近づくに従って雪も増えてきた。5cmはあるだろうか。池の水も凍っていた。氷めがけて石を投げてもカーンという金属的な音であった。
 ゆっくり登って行ったが、途中で連れ合いとIさんは高越寺まで(頂上まではあと10分程度なのだが)にするという。雪に足を取られて歩きにくい。もっとも、私たちより後から来た若い男性、若い女性はすたこらと軽快に追い抜いて行ったが。
 ようやく頂上に着いたのが11時23分。積雪は15cmほどあった。頂上で記念撮影をして、高越寺まで降りようとしたら、W石会長は先にある奥の院まで行くという。寒い中濡れた手袋の中で手が凍えてしまった。寺では温かいストーブがあり昼食とお茶を飲んで、ゆっくり休憩してあったまった。このときの気温は零下6度。2時には登山口に降りてきたが、疲れました。



雪の奥の院

 「奉天三十年」を読んだ。

奉天三十年(上) (岩波新書)

奉天三十年(上) (岩波新書)

 上下2巻のこの本は初版が1938年で、著者のクリスティースコットランド人の伝道医師。彼は1883年(明治16年)に奉天に来て、1922年に帰るまでの40年間医療とキリスト教伝道に尽くした。本書は彼が書きしるしたものを、夫人が編集して出版した。
 奉天市(ほうてん-し、英: Mukden)はWikipediaによると、「中華民国満洲国にかつて存在した、現在の瀋陽市に相当する都市。かつて清朝の都として盛京、満州語でムクデンと呼ばれていたが、1644年北京に都を移すと陪都となり、1657年「奉天承運、皇帝詔曰」にちなんで奉天府が置かれた。清朝が瓦解した後、1923年に張作霖奉天市政公所を設置。1928年12月29日張学良の易幟により中華民国のものとなり、1929年瀋陽市に改名されるが、1932年3月1日満州国の成立により1945年に崩壊するまで再び奉天市となる。」
 瀋陽は「中国地図冊」(地質出版社 2009年発行)の説明によると、遼寧省の中部にあり中国東北部最大の都市で人口は499万人。地勢は平坦で御大季節風地帯で、冬は冷たく乾燥し、夏は高温多雨、年平均気温は7.8度。機械工業が主で、東北地方の交通の要であるという。
 奉天は歴史のある都市で、クリスティー来たときの人口は約20万人と推定され、「満州の政治上・学問上・並びに商業上の首都」としている。ヨーロッパ諸国・ロシア・日本に翻弄され、主権を奪われてきた。1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1911年の辛亥革命についても書かれている。日本や朝鮮をめぐり歩いたイザべラバードとの交流も書かれていて興味深い。多くの軍閥とも著者は交流があった。あまり悪くは書いていない。キリスト教の伝道、医療、医学校の建設など中国進出(侵略か)の先兵として、本人が自覚しているかしていないかは別として、大きな働きをした。


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
 ○男伊達より 金より心 心さへ善けや 振りいらぬ
 ○腹に実の無い 瓢箪さへも 胸に括りが 着けてある
 ○仲が好いとて 礼儀を欠くな 圓(まるい)といふ字も 角がある