B型肝炎訴訟相談会と「手と足をもいだ丸太にしてかえし」

 昨日は、1時半から徳島市内のあわぎんホールでB型肝炎訴訟の相談会があった。大阪からは中島・増田・中村の三弁護士が参加し、私も徳島肝炎の会のK事務局長とともに手伝いで参加した。前回2月11日は、私の和解(10日)を受けて急な開催だったので、参加者は少なかったが、今回は18名が相談に来た。
 相談者の中には、人工透析をしている方もおり、大変ななかでも明るく療養しているようだった。病気だからといって家に引きこもらず、日帰りのスキー(岐阜まで)や山登りを楽しんでいるようでした。全く、感心します。
 私も、B型肝炎訴訟に関わってきたことを少し話した。裁判訴訟資料を送る方も何人かいて、徳島での訴訟の広がりを感じることができた。相談会は5時まであったのだが、4時少し前に失礼した。
 
 今後の相談会の予定は下記のとおり。

 3月24日(土) 午後3時 徳島県障害者交流プラザ
 4月28日(土) 午後1時半 とくぎんトモニプラザ
 6月30日(土) 午後1時半 とくぎんトモニプラザ(医療講演会も行う)

 
 3月24日は同じ場所で1時から、徳島肝炎の会の患者交流会も行う予定。
 参加費は、どれも無料でだれでも参加できる。

 
 表題の「手と足をもいだ丸太にしてかえし 現代仮名遣い版鶴彬全川柳」は、2007年12月に邑(ゆう)書林(長野県佐久市)から鶴彬(1908年〜1938年)の没後70年記念として出版された。編者は木村哲也(1959年福岡県生まれ)。東京外語大学の中国語学科・フランス語学科卒とあるから、変わり種の鶴愛好者といえよう。きっかけは赴任先の函館の大学から、東京出張の折り立ち寄った新宿のジャズバーでそこの常連客からそそのかされて(?)というのだから、これも変わっている。
 編者が「なぜ鶴彬が好きかを、はからずも教えてもらった」として、澤地久枝の文「昭和・遠い日 近い人」(文藝春秋 1997年 後に文庫化)の「鶴彬には、向きあっている権力のもつ強権について、おそれを知らないところがあった。学校で学ぶのではなく実地で、頭ではなく胃袋で自らをきたえたつよさと、世間を知るには経験の足りない若さとをもっていた。  中略  その傲慢を叩かれてはいるが、鶴彬を非難しながら彼を愛した人は多い。」という一文を紹介している。

 2009年7月には「鶴彬―こころの軌跡―」という映画が製作されて、各地で上映活動がされている。映画「鶴彬 こころの軌跡」製作委員会のホームページでは、
 「暴風と海の恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、社会運動の高まりのなかで成長し、19歳でナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦句をつくって戦争反対を貫くとともに、21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』をもちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の刑に。
 日本が中国に全面的な侵略戦争を始めた37年には「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」「屍のゐないニュース映画で勇ましい」などの作品を発表します。その直後にふたたび治安維持法違反で、東京の野方署に留置され、翌年、赤痢に感染、勾留を解かれないまま病院で亡くなります。特高に虐殺された小林多喜二と同じ年の享年29歳でした。出身地の高松町には「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」の句碑が建っており、『鶴彬を顕彰する会』もつくられています。

 以上のように鶴彬が紹介されている。今でも、戦時中の治安維持法で不当な弾圧をうけた人々の人権・名誉は回復されたいない。おかしな日本である。

 彼が川柳作家として活動したのは、1924年大正14年)からたったの14年間。1938年(昭和13年)8月 に二度目の治安維持法違反で野方署拘留中に赤痢に罹患。豊多摩病院に入院、死去した。

 彼の死後、70年経った今でも彼が痛烈に批判した社会が存在している。
 ○妻子飢ゆればストライキに入らず
 ○働けど食えず盗んで縛られる
 ○肺を病む女工故郷へ死に来る
 ○昼業と夜業と夫婦きりはなし
 ○月経が狂ってしまう深夜業
 ○搾取した金を貰うているダラ幹
 ○食堂があっても食えぬ失業者
 ○淫売をふやして淫売検挙だってさ
 ○「ワリビキ」へ貧しさ負うて列(なら)ぶ顔
 ○万歳とあげて行った手を大陸において来た



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