「ピンポンさん」荻村伊智朗伝(講談社)

ピンポンさん (角川文庫)

ピンポンさん (角川文庫)

 この本は、元職場の先輩Kさんが私が中国語を勉強していることを聞いて最近貸してくれたもの。彼女は、荻村は中国の周恩来とも卓球を通して親しくしていて、ピンポン外交をして来ていたと語ってくれた。
 荻村伊智朗(1932年6月25日 〜 1994年12月4日)は卓球の世界選手権者。静岡県出身。都立第十中学校(現都立西高等学校)在学中に卓球を始める。東京都立大学に入学し、転学後日本大学芸術学部映画学科卒業。昭和28(1953)年度 全日本 男子シングルスで優勝する。1954年のイギリスウェンブリー及び1956年の東京で行われた世界卓球選手権で優勝した。
 私は卓球界では著名な彼の名前は知っていた。1953年2月にはNHKがテレビ放送開始しているから、テレビニュースなどで荻村達日本選手の活躍をどこかで見たのに違いない。連れ合いは荻村という名は知らないというから、年令差か住んでいた地域の違いか。
 Kさんは、荻村はピンポン外交で大きな役割を果たしているが、荻村の妻の時美さんとは高知在住時代に職場が一緒で、二人の結婚式にも参加したといって、本と一緒にその写真も貸してくれた。写真の裏には昭和32年5月12日と記載されていた。



写真、右から2番目がKさん。


 荻村は、日中・韓国と北朝鮮だけでなく、彼自身の卓球上達にかける情熱と全く同じ情熱を注いで、アジア・全世界を駆け巡って卓球を通じて友好を深めて行っている。
 この荻村を支えてきたのが、本書の第二の主人公といってもよい、東京・吉祥寺の卓球場主の上原久枝であった。
 上原と荻村の最初の出会いは、「やせっぽちの高校生が卓球場に現れたのは、その翌日だった。番台にいる久枝の姿が目に入らないかのようにたたき土間から身を乗り出し、卓球場のなかをのぞきこんでいる。色白でこけた頬に、くっきりと目立った太い眉。雨も降っていないのに、学生服の上に灰色のレインコートを羽織っていた。しばらくして久枝の視線に気づいたのか、初めて顔を見る少年は番台に向けて口を開いた。『この卓球場には、誰か強い人がくるんですか』」
 この場面から、荻村の卓球人生は他人には到底及びつけないたゆまぬ努力と研究で世界の頂点までのぼりつめて行くのであった。とにかく、彼の独特な強烈な個性が描かれている。
 荻村が上原久枝に贈った詩の冒頭を紹介する。


 天界からこの蒼い惑星の
 いちばんあたたかく緑なる点を探すと
 武蔵野卓球場が見つかるかもしれない




我が家の絵馬  広島・尾道:千光寺



どどいつ入門(中道風迅洞 1986年 徳間書店
○今日はゴルフで あしたは小唄 一体わたしは どうなるの
○吹けよ川風 あがれよすだれ 中の小唄の ぬし見たや
○橋の上から文とり落とし 水に二人が名を残す