厚生労働大臣との協議に参加

 8月2日は、厚生労働大臣B型肝炎訴訟全国原告団弁護団との定期協議が厚労省で行われたので参加した。この協議には傍聴を含め129名が参加(私が所属する大阪では、原告13名、弁護士10名が参加)した。
 協議会に先立ち弁護士会館で簡単な打ち合わせを行った。協議会の時間はわずか1時間なので、貴重な時間を有効的に使うには、あらかじめ周到な準備が必要である。
 厚労省側の出席者は田村厚労大臣をはじめ、B型肝炎訴訟対策室長・結核感染症課長・健康局長・疾病対策課長・肝炎対策推進室長・障害保健福祉部企画課長。
 協議の詳細については、後日厚労省のホームページに掲載されるだろう。



田村厚労大臣


頼もしい、大阪原告。


 
小池大阪原告団代表と長野大阪弁護団長
小池さんと長野弁護士は個別救済のところで発言。



 最初に、田中原告団代表から自身がかかわった「真相究明と再発防止の検討会」についての話があった。そこでは検証会議の中で注射針だけでなく注射筒の使い回しをやめるように警告する文献が多数存在する一方、昭和38年(1961年)ごろになっても「予防接種において注射筒を各人ごとに替えることは煩に耐えないことはお分かりと思う。」という文献が存在した。また予防接種実施要領では1時間に100人も注射するよう勧められていた現状が明らかになったとして、注射針・注射筒の交換が事実上不可能ななかで予防接種事業が運営されていたと述べた。ののようはな集団予防接種事業はB型肝炎ウイルスのバラマキである。
 田中さんをはじめ大変多くの被害者が、このことにより肝硬変・肝がんを発症している。

 田村厚労大臣は田中さんのあいさつを受け、「今日はまた、年に1回のこのような協議の場でございます。皆さんからいろいろと意見を頂いて、しっかりと信頼のおける行政、これをめざして取り組んでまいりたいと思っています。」と答えた。

 その後、北海道原告団団長で現在肝がん治療のために入院している高橋さんが、ビデオで登場した。高橋さんは、自身の病状、経済状況、今後の願いなどを語った。
 「本当に、本当に思っているのは、私は余り長生きしたくないんです。実は現状はですね、和解金は、過去のそれぞれの負担に対して払われたことなんですよ。それはそれで私はいいんですよ。しかし私は生きていく以上はどうしても生活費が必要ですし、ところが生活費は、こういう体のために、なかなか雇用してくれる会社もやっぱりないですし、収入源はないですよ。雇用していただいても、朝から晩までみっちり働けるかっていったら、やっぱりそれは自分でも難しいのは分かっていますんで。生きているとお金がかかるんです。そして、結局は誰かの負担になるわけなんですよね。だから、できれば、ぽくっと逝きたいですね。」

 田中さん、高橋さんの発言を聞いても、厚労省の無策が多くの尊い命を苦しめていることが明らかになるのだが、これらの行政を進めた歴代の官僚や政治家たちが、責任をとった、責任を取らされと言うことをとんと聞いたとことがない。

 協議の中で、私たちが先に厚労省に出した真相究明・再発防止、個別救済、恒久対策の中で、特に重要な事項について原告・弁護士が発言して回答を求めた。
 肝硬変・肝がん患者の治療費は、現在公費助成の対象とはなっていない。これを助成対象として欲しい。
 厚労省は、提訴可能な集団予防接種の注射器の回し打ちの被害者を約45万人と推計しているが、基本合意が成立してから2年になるが提訴できたのは1万人をわずかに超えた程度。推計人数の2%程度にしかならない。集団予防接種による感染危険性の徹底した宣伝と救済制度の周知が必要である。
 真相究明と再発防止のための検討会提言では、
 「国において予防原則の徹底が不十分で、リスク認識が不十分で、摘期に更新されず、行政としての対応が摘期になされなかった国の体制と体質が大きな問題であった。」
 「厚生労働行政は、国民の生命と健康を守ることを最大の使命としている。省としてこれまでの組織・体制の問題点を洗い出し、十分な改善策を講じることが求められている。」と指摘されている。
 この検討会提言の履行を保証する会議や原告団弁護団と厚労大臣との定期協議が必要であると思う。

 田村厚労大臣の発言を聞いて感じたことだが、与党に復帰していざ厚労大臣に就任すると、野党時代に我々に話してきたことと大きく違ってきている。政権交代とはそういいものではないだろうと言いたい。政権公約として、また私たちとの話し合いで語ってきたこと通じて、民主党政権に代わって自民党政権を国民が選んだのであるから、自分が語ったことについては責任を持ってもらいたいというのが私の考えだ。政権が変わっても政治の中身が変わらなく、官僚の壁を崩せないのは頂けない。官僚に負けるな、頑張れ田村厚労大臣と言いたい。

 厚労大臣との定期協議から徳島の我が家に帰ったのが午後10時過ぎ。翌日3日早く長野の駒ケ根にいる二女の所へ車を走らせた。間1日置いて、娘と孫を連れて先ほど徳島に帰りついたのだが、強行軍で疲労困憊である。




我が家の絵馬  高知:足摺山金剛福寺



どどいつ入門(中道風迅洞 1986年 徳間書店
○逢うて間もなくはや東雲の 憎やからすが告げわたる
○わしが思いと空飛ぶ鳥は どこのいずくにとまるやら
○わしが胸では火をたくけれど けむり出さねば主やしらぬ