「あい 永遠に在り」 高田郁

あい

あい


 11月28日(木)早朝、長野の駒ヶ根の次女のところから、次男がが生まれたとの電話があった。予定日より少し遅れていたのだが、これで安心。連れ合いは早速手伝いをするために昨日出かけていった。
 おかげで、すべての雑用を含め自分ですることになった。これがたくさんある。その間に、肝炎対策の充実を求める地方議会への請願の行動、守大助支援などなど大変である。

 いつもは新刊の小説はお金がかかるので読まないのだが、これには理由がある。11月3・4日に剣山・次郎岌に登ったことは11月6日のブログで紹介した。その時の飲みながらの話の中で、Hさん(元徳大歯学部教授)の元同僚のIさんが、Hさんの文章が徳島新聞の文化欄に掲載されたを話したのだ。
 早速家に帰ってから徳島新聞を調べてみると、10月31日付の文化欄に「徳島の科学史」という連載ものがあった。何人かの方が書いているが、、関寛斎に関するものであた。「仁医・関寛斎」とあって、「貧者5,700人に無料で種痘」という大見出しであった。
 この記事を見てHさんに私がメールを送ったところ、Hさんから返信があり、「関寛斎については僕より詳しそうですね。名前は以前から知っていましたが、高田郁著『あい』(角川春樹事務所、2013年1月発刊)を読んだのが調べ始めたきっかけです。とにかくたくさん関連書が出ています。徳島新聞夕刊でも平成9年9月から257回連載しています(『われ百歳を期す・関寛斎』、和巻著。これが本になっていないのが残念です)。」とあり、高田郁(かおる)著『あい』を読む気になったのだ。

 私が関寛斎について読んだのは、もう30年も昔のことであった。以下がその本である。
 「関寛斎 蘭方医から開拓の父へ」 川崎巳三郎(新日本新書 1980年9月)
 「蘭医 関寛斎」 戸石四郎(崙書房 1980年1月 千葉の地方出版社)
 「関寛斎 最後の蘭医」 戸石四郎(三省堂選書 1982年8月)

 本書は、関の妻である「あい」について書いたもの。もちろん彼女が残した文はほとんどなかっただろうが、関が書いた文を元に彼女像を作り上げたものである。作家というものは少しの材料でかくも人物を描けるものかなあと感心してしまう。ただし、何箇所かで違和感のある表現もあるのだが、これは私の好みによるものであろう。
 夫妻を象徴する木として「山桃」の姿を描いている。
 小説の最後に「私は山桃に生まれ変わるののだわ。あいは喩えようのない幸福に満たされる。若い山桃の樹になったあいに、ひとりの少年が取り縋って泣いていた。見覚えのある、少年の頃の寛斎だった。あいは柔らかな枝を伸ばし、切なく泣いている少年をあらゆるものから守るように、ぎゅっと抱きしめた。」と書いている。
 長年連れ添ってきた夫婦愛の最後の姿を表している。

 ところで山桃は徳島県の県の木に指定されている。下記のような文章があった。
 「徳島藩時代には御禁木として保護され、やせ地でも生育し、肥料木として山林に植えられたこともあります。徳島のヤマモモは果実として有名であり、初夏に赤く熟し、甘ずっぱい味覚は私たちを楽しませてくれます。指定 昭和41年9月13日」
 ジュースにもされている。我が家の近くの柿島農協の敷地にも4mほどの高さの山桃の木がある。このような関係から作者は山桃の木を象徴木として選んだのだろうか。



我が家の絵馬  京都・北野天満宮  猿



どどいつ入門(中道風迅洞 1986年 徳間書店
○伊勢のあらめと 今宵の客は 見れば見るほど しおらしや
○やがて行きましょ 名古屋をさして なれし神戸を あとにみて
○名古屋名物 みやしげ大根 金のさちほこ 雨ざらし