沖永良部島から「じゃがいも」と「書斎のポ・ト・フ」

 寒いはずである。3月というのにみぞれが降ってきた。
 一昨日(3月4日)沖永良部島の従弟から、毎年恒例のじゃがいもが送られてきた。じゃがいもには永良部の赤茶けた土がついている。永良部の土は粘土質で肥えていない。これを見て必ず思い出すのは、従弟の父親が送ってくれた里芋についた土と、箱に一緒に入っていたダンボールの切れ端に書いた短歌であった。
 長女の加那が生まれた年であったので、もう40年近くになる。

 かなし子に おくる里芋 まづけれど 土もつきおり 思ひ(うみ)がてにせむ

 可愛い子どもに送る、ふるさとの里芋はおいしくはないけれども、この里芋を食べたら沖永良部島のことを愛しくおもうだろう。

 温かい心のこもった歌で、従弟もその心を受け継いでいる。


書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫)

書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫)

 開高健谷沢永一向井敏の文学作品談義であるが、切り口がすっぱりしていて爽快な本である。1980年の鼎談をもとに1981年に潮出版から出されたのであるが、今読んでも色あせていないのが、この3人の魅力である。とは言え私がこれまでに読んだのは、開高健の「過去と未来の国々」(岩波新書 1961年刊 1968年購入)だけである。大学生協で購入している。中国(1960.5.30〜7.6)、東欧(ルーマニア1960年9月、チェコスロバキア1960年10月、ポーランド1960年11月)に訪問した紀行文である。雑誌「世界」連載された。今はもう存在しない国名もある。
 とにかく読書の幅が広い。捕物帳から児童文学、西欧文学などなど、とても凡才には追いつけない。
 私は、捕物帳はほとんど読んだことがない。ごくまれに出張の新幹線や飛行機の中で読むだけであった。面白かったのは、向井の「捕物帳作家はそういう江戸情緒の枠をまずきちんとつくって、それに合った状況をしつらえ、そのなかでだけ人間を動かす。手っとり早く言えば、捕物帳というのは、江戸情緒という韻をふむことで成立している一種の定形文学」としていることであった。だからこそ現在の読者も、今の混乱した時代の中で安心して読めるのだろう。とにかく、書店の文庫棚を見ると江戸物で溢れている。
 児童文学については、リライトの功罪を論じているが、なるほどと思う。換骨奪胎させられた本を読まされては、真の読者は育たない。
 面白かったのはハードボイルド小説の評価であった。大藪春彦はくそみそで「あれはじつにスチャラカチャンというものなの」と切り捨てている。その一方で評価されたのは山本周五郎であった。開高健は「日本で上質のハードボイルドものが書けたのはたった一人、山本周五郎。」としている。そして、「樅ノ木は残った」「青べか物語」「五瓣の椿」を挙げている。
 山本周五郎はずっと昔に読んだものであった。



我が家のだるま 鳥取 三好だるま  6.5cm


どどいつ入門(中道風迅洞 1986年 徳間書店
○となりの座敷の あの鼻息は のわけの風より なお荒い
○今はサシスセ 昔はいろは すたらぬ筈だよ 恋の道
○からかさの 骨の数ほど男はあれど ひろげてさせるは 主ひとり