「泉光院江戸旅日記」などなど

 先週の18日以降、忙しい日が続いていた。19日(月)夜の中国語では、年末年始にかけて中国の母親の葬式に出席して帰っていた先生から、中国の葬式について聞いた。地域によってだいぶ違うようで、中国東北の本渓市の比較的裕福な家での葬式には、身内・近所・仕事仲間など1,000人ほどが集まったという。とにかく、日本ではこんな人も参加するの?というほど、幅広い人が参列したようだ。しかも香典は200元から付き合いによっては5,000元ほどまで。自宅でするので10数名が料理を作っている。哨吶(shao na)という楽器(木管楽器の一。前面に七つ、背面に一つ指孔(ゆびあな)があり、先端はアサガオ状に開く。長さは1m以上ある)を使って、故人を見送る。6人を雇いその内一人は歌をうたう。その他色々聞いたが省略。

 20日(火)も午後から中国語教室(これは月曜日とは違う先生)。午前中は連れ合いと大麻山に登った。21日(水)は理事をつとめているきのこハウスで職員採用の面接に参加した。その後、守大助の会の会員拡大。22日夜はきのこハウスの理事会。23日は大阪でB型肝炎訴訟の期日であったので参加。24日(土)はきのこハウスで職員採用で面接。午後からは守大助の会の役員会。夜はその新年会を徳島駅前の安兵衛で行った。25日(日)は自宅で午前中は会議。午後からは神経難病セミナーが徳島市であり、徳島肝炎の会の近藤事務局長が、とくしま難病支援ネットワークの会長として「第14回徳島神経難病セミナー」で少しばかり話をするので参加した。近藤さんは難病法成立の意義やこれからの課題、実効ある県難病相談支援センター設置などについて話をした。
 セミナーは1月1日から難病医療法が改定施行されたので、その理解を深めるものであった。難病の指定疾病が増えるのは大変良いことだが、その一方で自己負担が増えたり、保険診療の幅が制限されては、難病患者にとって望ましい「改定」とはいえない。徳島県難病医療連絡協議会の梶龍兒会長は「疾病拡大がすべてプラスになるとは限らない」とあいさつで述べていたが、そのとおりであろう。

 26日(月)は先に報告したとおりであった。夜は中国語で、この日は私が先生役であった。昨日は午前中にまた連れ合いと大麻山に行ってきた。健康管理に適度な登山は良いものであるが、出不精の私の体重は、寒いこの時期あまり減らない。この間、さっと読んだ「三毛流浪記」のわからない単語を調べて2度めに挑戦。昨日読み終わった。次は、音読をしようと思っている。何しろ、読んだ先から言葉の意味を忘れてしまっている。


 本の帯には、「南は鹿児島から北は秋田まで 回国修行の山伏が見た江戸最盛期農山村の暮らしぶり」と紹介している。1812年10月(文化9年9月)に日向国佐土原を従者と二人で旅立った老修験者(野田泉光院成亮)の6年2ヶ月に渡る旅である。この本を読んでみると、当時の日本は経済力も少しは向上し、女性を含め多くの人が旅をしている。今NHKでは朝の「グレートトラバース」という番組で日本百名山を一筆書きで徒歩する青年が放映されている。大変な挑戦であると思う。しかし、明治より前はひたすら歩くのが移動の手段であった。今の装備から比べるととても比較にはならないもので歩くのだから、軟弱な私にはその厳しさは想像もつかない。
 56歳の時に出発し、各地で托鉢をしながら、時には1ヶ月(特に年末年始にかけて)も同じ所に逗まりながら、地域の人々に支えられて旅をしている。今から思うと、大変心の広い人たちに支えられている。見ず知らずの人を迎え入れる土壌が農村社会に育まれていた。

 泉光院は山伏であるから、山にもいくつも登っている。富士山も修験道にとっては必須の山である。今のようにバスで5合目まで行って登山ということではない。この時代も登山者が多かったようだ。泉光院のような回国者は山役(入山料)は不要だったようだが、それ以外の人は32文を支払っている。江戸時代と言っても時期によってその貨幣価値は違うが、ネットで調べてみたら、1文はだいたい30円というのが紹介されていた。そうすると約960円になるのか。



我が家の郷土玩具  長崎・古賀人形  唐子


どどいつ入門(中道風迅洞 1986年 徳間書店
○たそがれ迫れば誰かがほしい 煙草の輪を追うただひとり
○食べていければいい一人居へ 世の中うるさいうば桜
○雪をあかりに湯船の二人 許した時間を湯気つつむ


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