中国延吉旅行・中朝国境の図們大橋・徳島新聞にB型肝炎訴訟の記事

 昨日、B型肝炎訴訟大阪原告団共同代表の小池さんから、電話があった。徳島新聞B型肝炎訴訟について大きく書かれているとのことであった。24日の新聞、東京から帰ったばかりの私は見ていなかった。


 徳島でも多くの被害者がいるにもかかわらず、全国B型肝炎訴訟原告団に加わっていない方を含め、130名の提訴、100名の和解合意しかしていない。この記事をきっかけにもっと多くの方が提訴して、和解が進み肝炎の恒久対策が進むことを願っている。30日には高松市で四国の原告の交流会が行われる。医療講演もある。
 中国旅行3日目は、延辺大学1年生(9月から2年生)の日本語学科の学生も参加した。彼らには日本語の勉強(相手がじじばばでは話しにくいかも)私には中国語の勉強となった。
 最初に行ったのが延吉の革命烈士陵墓博物館であった。多くの犠牲者の若者が祀られていた。その後、図們中朝国境に向かった。タクシー2台に分乗したが学生の話によると、延辺朝鮮族自治州はなかなか働き口がなく、彼の両親も韓国で働いているという。夏休みには両親のところに行くと行っていた。なぜ日本語学科を選んだのかと聞くと、日本で働きたいという。私は、日本にはすでに多くの中国人が来ていて、日本で結婚し子どもも生まれている人が大変多い。安易な考えで日本に来てもなかなか職を得られない。なにか特色を持たなければと言った。
 中朝国境には図們大橋が架かっている。北朝鮮は直ぐ目の前だ。大きなトラックが石炭などを満載して何台もやって来る。日本だと国境線がどこにあるかわからないのだが、目の前に他国が見えるというのは不思議な感覚だ。図們では餃子専門の店で食事をした。なかなか美味しい味であった。


 
 昼食を済ませ龍井市に向かった。国境の川沿いにタクシーは進む。1時間ほど進んだだろうか。突然、私たちのタクシーの前に中国人民解放軍の兵士が4〜5名立ちはだかり、タクシーを停めて車内をジロジロ見る。すぐに行けという指示が出た。S氏に聞くと脱北者の検索ではないかという。服装ですぐにわかるので行かせたのだろうと。一瞬緊張した時間であった。今旅行の一番のハプニングであった。
 龍井市では、間島旧日本総領事館尹東柱墓地・13名烈士記念墓地・尹東柱生家・龍井井戸・一松亭・大成中学校などを見学した。このコース、S氏が朝鮮族の歴史を私たちに知ってもらうためにいろいろ考えて用意してくれた。朝鮮族の学生も初めてのところだったようで、興味深く見学していた。旧満州国であったこの地には、多くの日本の侵略行為を示す遺跡がある。間島旧日本総領事館尹東柱墓地・13名烈士記念墓地・尹東柱生家には、韓国の高校生の旅行団と思しき学生が見学に来ていた。日本と中国・韓国・北朝鮮の歴史をきちんと知ることは大変重要なことだと考える。
 旧総領事館の地下は当時刑務所になっており、監獄部屋だけでなく当時そこで使われた拷問道具も展示されていた。それを日本人である私たちと朝鮮族である学生とが一緒に見るのであるから、これまた不思議な感覚がした。
 尹東柱の生家は朝鮮風の建物で当時の生活がしのばれた。尹東柱朝鮮族で日本にも留学した。彼は1917年に龍井市に生まれた。立教大学同志社大学でも学んでいる。1943年7月14日に治安維持法違反の容疑で逮捕され、その後1945年2月16日に福岡刑務所で獄死した。おそらく、虐殺されたのであろう。中国・韓国・北朝鮮では有名な詩人である。
 尹東柱の生家で彼の詩集を販売していた。ハングルと中国語で書かれている。せっかくだから購入することにした。ここでもちょっとしたハプニングがあった。値段は35元であったので100元札を出した。売店の女性が50元のお釣りをくれた。本を示して35元ではと言ったのだが、50元で売っていると宣わった。まあ、生家の維持費の足しにでもなればよいかと、50元で購入することにした。

 彼の一番有名な詩を紹介しよう。

 序詩
 空と風と星と詩
 死ぬ日まで 天を仰ぎ
 一点の恥も ないことを、
 葉あいに 立つ風にも
 ぼくは つらくなった。
 星を歌う 心で
 すべての死んでいくものを 愛さなくては
 そして ぼくに与えられた道を
 歩いていかなくては ならない。
 
 今夜も 星が風にまたたいている。

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 湯浅竹山人編「粹の懐」昭和2年(1927年)12月発行
◯主に飽れて私はたれに、好れて嬉しひ人があろ。
◯花と蝶さへ迷ひがあるに、まして定めぬ中じや物。
◯偽り聞さへ嬉しひ迄に、おもひこがれて逢ぬとは。
◯主に知恵をば皆買こまれ、とかくわたしは愚痴になる。
◯おもひ積雪落して仕舞や、傘も今では骨折ぬ。