上海大学短期語学留学⑥ 紹興、胃カメラ検査

 一昨日(3月4日)は、守大助さんを支援する徳島の会の役員会が1時からあった。最初は、徳島駅前で仙台高裁宛の再審開始をもとめて署名行動を1時間した。比較的温かく良かったが8名参加でチラシを150枚配布して、署名は21筆であった。2時からは役員会。第12回総会のまとめを行った。前回からの経過報告がされた。署名数は4,404筆、会員数は494名と報告された。当面の活動を確認して、裁判資料集の読みあわせを行い、会費の集金分担を決めた。
 昨日は胃カメラ検査があった。特に問題はなかったので一安心した。

 上海大学短期語学留学⑥ 紹興
 2月18日(土)は、徳島からやってきた2人を含め、徳島組5人で紹興に行ってきた。これは陽光学院の犂先生が、わざわざ徳島から上海の旅行会社に予約をして用意してくれたものであった。入場料・昼食・観光ガイドを含め、1人あたり11,000円の負担である。魯迅故居・魯迅紀念館・沈園・蘭亭をめぐるコースになっている。朝食はカップラーメン。ここに来て、なかなか野菜がとれない。
この日はタクシーで上海から紹興まで行くのだが、7時にホテルまで迎えに来た。
 犂先生は、みんなに中国語で話すようにと言いつけていた。ガイドさんは中国語しか話さない。普通のスピードで話すので、ほとんど理解できない。H旗女史が「请,慢点儿说」と言ったら少しは遅くなったがそれでも分からない。再度彼女が「请,慢点儿说」と言ったので少しはガイドの話がわかるようになった。周りの風景や紹興で見るところのことなどを分かりやすく話してくれた。
 私が今回、紹興旅行を希望したのは2つあった。その一つは、もちろん魯迅の生まれ育ったところだからである。しかしもう一つの理由は、清朝末期に政府によって惨殺された女性革命家秋瑾の生まれ育ったところからでもある。時間があったら行くことにしたが、かかる入場料は別料金であった。
 最初に行ったのは「蘭亭」。ここは、書聖と言われる王羲之が353年(東晋の永和9年)に曲水の宴を開き、有名な「蘭亭序」を書いた場所として知られ、日本からも多くの書道愛好家が訪れている。広い敷地に幾つもの建物・池・竹林などがあり、落ち着いた雰囲気であった。
 この後昼食。料理名は全くわからないが、美味しいものであった。Y田さんはビールを美味しそうに飲んでいた。
 沈園は南宋時代の豪商沈氏が造営した江南式庭園と紹介されていた。有名なのは南宋を代表する詩人陸游が、かつて思いを寄せた唐蜿とこの庭園で再会して作った宋詞「釵頭鳳」が壁に刻まれていた。岩波書店でかつて「中国詩人選集第二集」が出されていて、陸游の詩も一冊になっていたのを読んだことがある。
 昼食を終えて、魯迅故居と魯迅紀念館に行った。魯迅の小説に書かれていることから想像したよりも、遥かに広い敷地と屋敷であった。見学を終えて、暫く皆さん自由行動。紹興酒の8年物を購入、50元であった。
とにかく、土曜日だからなのだろう。観光客が大変多い。それだけ中国人にとって魯迅は人気があるということなのだろうか。中国の教科書に魯迅の作品・人柄の紹介は度々出てくるので、そうなるのか。清朝末期の紹興の面影は全く無い。
 そこで、わが家の書棚を探してみると、「社戯」(日本訳名:宮芝居)という小さな本が見つかった。魯迅の文章に多くの挿絵が書かれているものであった。
 毛沢東は「文芸講話」(192年5月)で以下のように語っているが、魯迅にとってはありがた迷惑としか言いようのない評価ではなかったかと私は思っている。
魯迅の詩のつぎの二句、すなわち、「眉をよこたえて、ひややかに千天の指にたいし、こうべをたれて、あまんじて孺子《じゅし》の牛とならん」を我々の座右の銘としなければならない。ここでは、「千天」とは敵のことをさす。我々はどんな凶悪な敵にたいしても、けっして屈服するものではない。ここでは、「孺子」とは、プロレタリア階級と人民大衆のことをさす。すべての共産党員、すべての革命家、すべての革命的な文学・芸術活動家は、魯迅を手本にして、プロレタリア階級と人民大衆の「牛」となり、命のあるかぎり献身的につくさなければならない。」
 そうは言っても、暖かい冬の一日にこれだけの人が出歩くのだから、少しは平和で安全(?)国になったということだろうか。
 この日最後の訪問地は秋瑾故居。細長い敷地で魯迅の故居よりは狭い。それでも資産家に生まれた様子がわかる佇まいであった。入場料は10元であったが、私は70歳以上なので「免費」(無料)であった。この後も、しばしば免費のところが出てくる。

 映画「秋瑾」をだいぶ昔、東京の東方書店で購入して観たが、そこで見たままの景色であった。
 ウキペディアでは、秋瑾について以下のように紹介している。
 秋瑾:(しゅうきん、1875年11月8日−1907年7月15日)は、清朝末期の女性革命家。詩人。原名、閨瑾(けいきん)。日本留学時(1904年)に「閨」を削って「瑾」とした。幼名は玉姑。字(あざな)は璿卿(せんけい)、号は旦吾。紹興の人物。秋瑾とは、「秋の美しい玉」の意味である。
 彼女をモデルに魯迅の「薬」が書かれている。また作家の武田泰淳は『秋風秋雨人を愁殺す・秋瑾女士伝』(1968年)を書いた。2007年に山崎厚子が「秋瑾 火焔の女」(河出書房新社)を書いている。いずれも読んだが、秋瑾の国の未来を想う激しい気持ちが書き表されている。
 ここでは、小さな本(連環画)「秋瑾」(10元)と日中両国語で書かれている「自由への闘い秋瑾」(30元)を購入した。今回の旅行の目的が果たせた。

 夜は5人で水餃子屋さんで食事。もう、顔なじみになった。
 この日、犂先生からはO山さんの携帯におびただしいほどの数のメルーが届いた。とにかく私たちの行動が心配なのだ。ろう。20通は超えていた。この後も、O山さんのところにはたくさんメールが届いた。心配性?な先生ではある。
 この日の歩数は15,989歩。

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