魯迅再読 3

 書き出しの第一章に「私の魯迅体験」として、著者と魯迅との出会いが書かれている。「故郷」が最初の魯迅の本との出会いである。次のとおりだ。
 「初めて魯迅に出会ったとき、私は小学生五年生だった。それは1963年、つまり東京オリンピックの前年である。私の家は東京大田区馬込に50年代半ばに造成された住宅街にあったが、まだまだ空き地も多く、小学三年生までは毎日のように野球をして遊んでいた。その野球少年が小学四年生頃から子供部屋に籠もって本を読むようになったのは、空き地にどんどん家が建ち始め、野球ができなくなったからではないだろうか。都営地下鉄浅草線が延伸して、馬込が都心に直結されたのもその頃だった。」
 著者の藤井は1952年生まれ。私より6歳下である。私も、藤井と同じ馬込で生まれ育った。当時の馬込は、藤井が描くとおりののんびりしてはいたが、急速に戦後復興がなされて変化が始まっていた。小学校は馬込第一小学校か馬込第二小学校(私が通学)、中学校は馬込中学校か馬込東中学校(私が通学)、のどちらかだったのだろう。私が魯迅を読んだ記憶は、彼よりはだいぶ遅く高校生の時だった。
 著者は、魯迅研究で大きな役割を果たした研究者・本として、普及に大きな役割を果たしたのは竹内好をあげている。彼に次いで私も読んだが丸山昇の「魯迅 その文学と革命」(平凡社東洋文庫 1965年)をあげている。さらに、学研版の「魯迅全集」(学習研究社 1984年〜86年 購入はしたが積読)、丸尾常喜の「魯迅 人・鬼の葛藤」(岩波書店 1993年)、北岡正子の「魯迅 日本という異文化のなかで」(関西大学出版部 2001年)、中島長文の「ふくろうの声 魯迅の近代化」(平凡社 2001年)などをあげている。
 東アジアでの魯迅の読まれ方は、当然ではあるがそれぞれの国が置かれていた状況によって、大きく変わっている。中国でも魯迅の読まれ方は、文化大革命を挟んで大きく変化しているようだ。著者によると魯迅嫌いも増えている。
 それでも魯迅を読み続ける意味として、「魯迅を手掛かりに中国や東アジアと共生する日本の将来を展望する時、本書がその一助となりうれば幸いです。」と結んでいる。

 魯迅をもっとも政治的に利用したのが毛沢東毛沢東は「文芸講話」(在延安文芸座談会上的講話 1952年5月23日)の中で、魯迅の詩「自嘲」をこう解釈して見せた。『「眉を横にして、ひややかに、千夫の指さしにこたえ、こうべをたれて、甘んじて孺子(子供)の牛とならん」をわれわれの座右の銘としなければならない。「千夫」とはここでは敵のことである。どのような凶悪な敵に対しても、われわれはけっして屈服するものではない。「孺子」とはここではプロレタリアートと人民大衆のことである。すべての共産党員、すべての革命家、すべての革命的な文芸活動家は、みあ、魯迅に見ならい、プロレタリアートと人民大衆の「牛」となり、さいごまで従順につかえなければならない。』
 しかし、毛沢東の考えから、一番遠いのは魯迅ではないだろうか。

 横眉冷对千夫指,俯首甘为孺子牛”⒁,应该成为我们的座右铭。“千夫”在这里就是说敌人,对于无论什么凶恶的敌人我们决不屈服。“孺子”在这里就是说无产阶级和人民大众。一切共产党员,一切革命家,一切革命的文艺工作者,都应该学鲁迅的榜样,做无产阶级和人民大众的“牛”,鞠躬尽瘁,死而后已。

 著者の藤井は本書の中でも、魯迅が影響を受けた日本人作家として夏目漱石芥川龍之介など、魯迅から影響を受けた日本人作家としては大江健三郎村上春樹などを取り上げている。
 我が家にあるいずれも積読の藤井の著書は、「東京外語支那語部 交流と侵略のはざまで」(朝日選書 1992年)・「ロシアの影 夏目漱石魯迅」(平凡社選書 1985年)・「魯迅 『故郷』の風景」(平凡社選書 1986年)・「新・魯迅のすすめ」(NHK人間講座 2003年)。いつ読むのだろうか。まだまだ積読魯迅の本はたくさんある。



 上の写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 狆鯛


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  〇もはや命も 絶えなば絶えよ 住めば恨めし 同じ世に
  〇程は雲井に 隔つるとても 心変わるな いつまでも
  〇いつの夕べに 袖ふり別れ もはや浅茅も 背にあまる